2016年5月12日木曜日

社会民主党・考


社民党が、民進党との合流を「打診」していることが、報道された。
日本の左翼の中には、戦後の「日本社会党」の幻影を未だに、頭の片隅にもっておられ、そのために、そういう「打診」に首をかしげる方もおられるかもしれない。また、沖縄をはじめ、全国で、社民党は反基地、「安保法制反対」の運動を展開しており、その点は評価すべきだという意見もあるだろう。それはそのとおりだ。だが、ここで、問題になっているのは、個々の問題ではなく、社民党が、何を自分たちのパラダイムとし、政治的ヘゲモニーを組織するときの方法としているかということだ。
 社民党は、今年の京都市長選挙など、地方首長選挙では、自民党や民主党(民進党)と、相乗りの選挙協力をつづけてきた。その地方の社会的ヘゲモニーの土俵で、自分たちの多数派獲得をめざす・政治的ヘゲモニーを確保するという社会民主主義の「王道」を順守している。日帝権力と、あるところでは闘い、あるところでは闘わない。これが、改良主義的政策路線をとる社会民主主義の基本だ。
 だが、これでは、日帝に対する「革命的祖国敗北主義」は、貫徹できないのだ。ここに、社民党のアポリアがある。社民党は、完全に<国家支配階級としての自民党>とは闘えず、民主党→民進党と同じスタンスに立っているということは、すでに「自社さ」政権以降、はっきりしている。
その決定的文書に、1990年代初頭において表明された日本社会党の「社会民主主義とは何か」という、綱領的文書がある。これで、自社さ政権も可能となったのである。

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社会民主党・考
                                       渋谷要


日本社会党は、戦後久しく綱領的文書であった「日本における社会主義への道」を最終的に放棄したのち、それに代わる綱領的文書を、日本社会党の社会主義理論センターが、1990年に発表した。それが「社会民主主義とは何か」だ。この文書の前半部分の主要部分と考えられるところを、ここでは読んでみよう。後半部分は、各論になってゆくので、ここでは、省略する。この文書は、まさにソ連東欧圏の崩壊の中で書かれており、ソ連スターリン主義は破産した、これからは社民主義だという歴史認識が伺えるものとなっている。

ここでの、ポイントだが、この文章で、もっとも、ナンセンスなのは、共産主義を戦略的に敵視していることである。

「周知のように、国際社会主義運動は、第一次世界大戦後大きく二つの組織に分裂した。一つは社会民主主義者の労働社会主義インターナショナル(一九二三年五月結成、通称第二インターナショナル)であり、いま一つはマルクス・レーニン主義者の共産主義インターナショナル(一九一九年三月結成、通称第三インターナショナル)である。この二つの組織は、傘下の党が一九三〇年代フランス、スペインで反ファッショ人民戦線政府運動を行ったさいに共闘したほかは終始、激しく対立しあった。対立の原因は、第二インターナショナルが議会主義と漸進的社会改良による社会主義の実現を主張したのに対して、第三インターナショナルがそれと真っ向から対立する武力革命によるソビエト政権の樹立を主張したことにある」(「【1】歴史的に規定された社会民主主義の概念」の「4」)と。

そして、第一次大戦における、ドイツ社民党の帝国主義戦争参戦や、これに反対したローザらスパルタクスブント虐殺、社民党:国防大臣ノスケの義勇軍(フライコール)の展開が、ナチス武装組織形成へと展開したことを、一切、覆い隠すものとなっている。

こんなことが、ゆるせるとでも思っているのか!!

社会民主主義は日本でも、戦前、改良主義の社会大衆党が日本共産党のようにも闘えず、戦時総翼賛体制にのみこまれていった。

西欧社会民主主義は単に議会主義で、日和見主義だからダメだということではなく、帝国主義の戦争を支えた民間反革命そのものだということである。まず、そのことを西欧社会民主主義者は、はっきりと自己批判するべきではないか。

例えばブレアのイラク戦争参戦などの西欧社民の帝国主義の侵略反革命参戦などは、彼らの綱領的前提である西欧民主主義的価値の防衛を例えば、共産主義からの防衛、西洋文明を否定するイスラム原理主義過激派からの防衛など、帝国主義と同一ベクトルをもってなそうとしてきた、その考え方に拠っているのだ。

そういうかれらの、ブルジョア近代の価値観から生み出されてきたのである。
そして、かれらは国際資本主義の共通の価値の防衛・利害の防衛をブルジョアジーとともにになうことで、資本主義改良のヘゲモニーをとってゆくことができると、妄想してきたのである。まさしく、戦争も労使協調でやる。これが西欧社民主義の歴史の中で、現実に展開されてきたことではないのか!! まさしく、正真正銘の反革命戦争の思想、それが西欧社会民主主義だ!


以下、主な内容について、読んでゆこう。


社会民主主義とは何か(前半部分、以下は省略)

一九九〇年七月二六日

日本社会党・社会主義理論センター

*西欧社会民主主義の立場から社会民主主義概念を整理した文書。出典は『月刊社会党』一九九〇年九月号(第四一九号)長文のため2ページに分けて掲載。 ……

(*この文書は中央執行委員会の諮問を受けて、社会民主主義の一般的考え方を整理したものである)


【Ⅰ】歴史的に規定された社会民主主義の概念(略)

【Ⅱ】 社会民主主義とは何か

 6 社会民主主義に対する今日的定義は、社会民主主義を掲げる各党が共同で作成した社会主義インターナショナルの宣言のなかから得ることができる。一九五一年、社会主義インターナショナルは創立にあたって『民主的社会主義の目標と任務』と題する宣言(フランクフルト宣言)を採択したが、この宣言は第二次大戦後の社会民主主義がどのようなものであるかを示しており、一九八九年六月に開催された社会主義インターナショナル大会で採択された『社会主義インターナショナルの基本宣言』(ストツクホルム宣言)は、社会民主主義の現時点における到達点を示すものである。以下、これらの宣言によりながら今日の社会民主主義がどのようなものであるかを明らかにしたい。

一 基本価値の実現が社会民主主義である

7
 社会民主主義は、実現すべき基本価値(基本理念)として自由、公正(平等)、連帯の三つを挙げる。政治、経済、社会、文化など人間生活のあらゆる領域で人びとが連帯して自由を実現し、公正(平等)を実現するのが社会民主主義である。

8
 自由、公正(平等)、連帯は一挙には実現できない。たゆみない民主主義的改革によって一歩一歩実現される。その意味で社会民主主義は「社会と経済の民主化、社会的公正を増大する持続的な過程である」(ストックホルム宣言)。現に普通選挙制、労働三権、社会保障などさまざまな民主的な制度が行われているが、さらに基本価値を実現するための諸政策が実現されることによって社会民主主義的社会編成はいっそう前進していく。永続的なこの過程が社会民主主義を発展させ、成熱させていく。社会民主主義が発展することによって人間解放、人間性の自由な発展が可能になる。

 9 社会民主主義は、基本価値を実現するためにどのような政策手段が最適であるかをあらかじめ決めることはしない。その国の政治的・経済的条件のもとで自由や公正や連帯を実現するうえで最適な手段を選択する。従って基本価値を実現する運動は国によって当然異なることになる。イギリス労働党はかつて国有化政策を実行したし、ミッテラン政権もその初期に国有化政策を行ったことがある。西ドイツ社会民主党は、「同権にもとづく参加」という社会民主主義の基本路線にたって企業レベルだけでなく社会レベルにおいても共同決定を追求している。「民主的社会主義をめざす各国のたたかいは、政策面での相違と立法措置での違いを示すであろう。それらは歴史の違いとさまざまな社会の多様性を反映するであろう。社会主義は、もはやそれ以上の変革も改革もできず、発展させることもできない最終的で完成された社会主義の青写真を持つ、などとは主張しない。民主的な自主決定をめざす運動には、各人と各世代が独自の目標を設定する以上、常に創造のための余地が存在する」(ストックホルム宣言)のである。

10 これに対して、ソ連型社会主義では社会主義を実現する手段は最初から決められていた。議会主義を否定するプロレタリアート独裁(共産党の一党独裁)と市場を追放する中央集権的計画経済が社会主義を実現する政治的・経済的手段であった。長期にわたる実験の結果、この社会モデルは無惨にも崩壊した。プロレタリアート独裁が社会主義の目的である自由と民主主義を圧殺し、中央集権的計画経済が国民経済を破局的停滞に導いたのである。ソ連、東欧では共産党一党独裁と中央集権的計画経済が放棄され、複数政党制と市場経済の導入が決定された。手段が目的の達成をさまたげるとき、その手段が放棄され、別の手段が選択されるのは当然のことである。

11 社会民主主義は、一つの完成された社会モデルを描くことはしない。基本価値を実現する手段は多様であり、基本価値を実現する運動は永続的であって完成した社会モデルを描くことはできないからである。民主的な経済制度や社会制度ができることによって公正(平等)が前進した、とする。それは明らかに社会民主主義の発展である。しかし社会民主主義は、いくつかの民主主義的な制度ができたからといって完成することはない。さらにより多くの自由、より進んだ公正をめざして運動が進むからである。

12 人間生活のあらゆる領域で自由、公正(平等)、連帯を実現するためには、人びとの積極的な参加がなによりも必要である。その意味で「参加と民主主義」は社会民主主義の基本路線である。社会民主主義は「最高の形態における民主主義」(フランクフルト宣言)であるといわれるゆえんである。


13,14(略)


15 政治的民主主義の行われているわが国では、憲法の規定によって国会が国家権力の最高機関である。普通選挙権をもつ国民の自由な意思によって選ばれた国会議員が、国民のさまざまな意見や利益を代表して討論し、法案の採択をつうじて国民の最高意思を決定する。国民の多元的な意見や複雑な利害が国会で調整され、国民生活のあり方が決定されていくのである。
 社会民主主義政党は国民の最高意思が決定される国会を重視し、基本価値を実現するために必要な諸法案の国会通過のために努力する。日常的な政策形成活動、法案提出と徹底的な審議、法案の成立とその実施、これが議会主義を基本路線とする社会民主主義政党の中心的活動である。

16 わが国のように国会で多数を占めた政党が内閣を組織できる国では、国会をつうじて政権を獲得することができる。従って社会民主主義政党は、国会選挙で国民の多数の支持を得て政権を獲得し、社会民主主義の基本価値を実現するための諸政策を実施する。政策が国民の支持を失い、選挙で過半数の議席を得ることができなければ、当然野に下って捲土重来を期する。

17 このように議会制民主主義のもとでは、国家権力を組織するのは結局は国民である。国民が国会議員を選び、国会の多数派が内閣を組織し、内閣が裁判官を任命するからである。現代国家はその意味でまさに民主主義国家であって階級国家ではない。自由民主主義政党が国会で多数を占めれば、国家は財界の意向に沿って機能することが多いであろう。逆に社会民主主義政党が多数を占めれば、国家は勤労国民の利益のために機能することが多いであろう。民主主義国家は国民の選択の結果、このように大資本の利益を反映することもあるが、勤労国民の利益を反映することもある。もはや大資本の階級支配のためだけの国家ではない。それは社会民主主義運動、労働組合運動が長年の苦闘の末に獲得した国家でもある。これらの運動によってかちとられた政治的自由と民主主義のおかげで、社会民主主義政党は現代国家に参加し政権政党になることができるのである。このように、現代国家はもはや一部の経済的強者のためだけに機能するのではなく、社会保障制度の発展に端的にみられるように国民のなかにある貧困と不平等をとりのぞくためにも機能する。現代の民主主義国家は、自由な選挙権を行使し、平等に政治に参加した成年男女によって形成されたものであり、それゆえ、国民的利益に奉仕することがその任務でなければならない。

18 とはいえ、現代日本国家の中枢を形成する官僚機構には、長期にわたって政権を独占してきた自由民主主義政党と財界の強い影響がみられる。政府が組織する各種審議会も自由民主主義政党と財界の政策推進機関となっている。官僚機構の民主化と各種審議会への国民参加がきわめて不十分なのである。社会民主主義勢力の力量不足の結果というはかはない。

19 権力の集中は、民主主義の実現をさまたげる。民主主義の発展のためには集権化された権カを分権化することが必要である。分権が進めば進むほど人びとの政治参加は容易になる。自治と分権によって政治的民主主義は前進する。


――――――ここまで。


以上、読んできた文章には、さまざまな問題点があるが、一点だけ指摘しておこう。


その一つに「17」全文の問題がある。


「17 このように議会制民主主義のもとでは、国家権力を組織するのは結局は国民である。国民が国会議員を選び、国会の多数派が内閣を組織し、内閣が裁判官を任命するからである。現代国家はその意味でまさに民主主義国家であって階級国家ではない」。


ここでは国家というものを、議会と議員内閣制にきりちぢめている。国家の実体をなすのは、官僚制度と常備軍、つまり軍事的官僚的統治機構である。この官僚制度には警察機構など、公的暴力機関がふくまれる。例えば民主党の改革も、官僚制度そのものをなくすわけではない。議会選挙こそ、階級支配とそのための機関を覆い隠すものにすぎない。


「自由民主主義政党が国会で多数を占めれば、国家は財界の意向に沿って機能することが多いであろう。逆に社会民主主義政党が多数を占めれば、国家は勤労国民の利益のために機能することが多いであろう。民主主義国家は国民の選択の結果、このように大資本の利益を反映することもあるが、勤労国民の利益を反映することもある。もはや大資本の階級支配のためだけの国家ではない。それは社会民主主義運動、労働組合運動が長年の苦闘の末に獲得した国家でもある」。


このようにいうことで、結局、ブルジョアジーの支配を肯定してしまっている。階級搾取をなくすためには、労働力の商品化を廃絶しなければならない。それは労働者の生産自治を通じて可能となるのであり、当然、現代国家に替わるプロレタリアの共同社会、パリ・コミューン型の共同社会、マルクス主義的に言えばプロレタリア・ソビエトに根ざした国家が求められることになる。


以上のようなプロレタリア革命を否定する社民主義の「階級支配のためだけではない」無階級国家=行政(政策)国家論は、ブルジョアジーによる生産手段の階級的領有に手をつけず、労働力の商品化は容認することになってしまう。その結果、非妥協的な階級闘争のプロレタリア革命としての決着を否定するのであるから、資本家と労働者の階級闘争の調停・統制を本来の国家の機能と考えるような「第3権力」としての国家権力をも容認する以外ないことになる。


「これらの運動によってかちとられた政治的自由と民主主義のおかげで、社会民主主義政党は現代国家に参加し政権政党になることができるのである。このように、現代国家はもはや一部の経済的強者のためだけに機能するのではなく、社会保障制度の発展に端的にみられるように国民のなかにある貧困と不平等をとりのぞくためにも機能する。現代の民主主義国家は、自由な選挙権を行使し、平等に政治に参加した成年男女によって形成されたものであり、それゆえ、国民的利益に奉仕することがその任務でなければならない」。


こうして、「現代国家」の価値観自体は、防衛すべし、ということになり、ブルジョア国家(階級国家)としての打倒の対象ではなく、改良の対象と措定される。


「(現代国家は)国民的利益に奉仕することがその任務でなければならない」という、現代国家を運命共同体とする国家の共同幻想性にまきとられた見解にほかならない。


それからさらに、この国家は、近代民主主義の市民にとって対外的にも「運命共同体」だとなり、戦争(対外的な公的暴力の発動)に際しては、平時からの労使協調を背景として、祖国防衛主義=城内平和政策がとられることになる。つまり、国家の共同幻想性が展開するのである。


マルクス主義国家論をめぐっては、国家の本質なるものが実体化され、「本質=公的暴力」説と「本質=共同幻想体」説とが論争してきたが、この社民主義との対比から、わかることは、「本質=公的暴力」説を否定することは、「本質=共同幻想体」説も同時に否定することだということだ。


「18 とはいえ、現代日本国家の中枢を形成する官僚機構には、長期にわたって政権を独占してきた自由民主主義政党と財界の強い影響がみられる。政府が組織する各種審議会も自由民主主義政党と財界の政策推進機関となっている。官僚機構の民主化と各種審議会への国民参加がきわめて不十分なのである。社会民主主義勢力の力量不足の結果というはかはない。」


こういう「18」が指摘する現実は、資本家階級の階級支配の政治委員会としてブルジョア国家が成立していることを確認するもの以外ではない。


以上は、社民主義の無階級国家=労使協調=城内平和に対する、基本的な批判的観点の確認だ。

 こうして、自社さ政権→民主党連合政権・閣内協力→民進党との合流打診。地方首長選挙での、自民、民主との相乗り選挙協力(地方的主流ヘゲモニー路線ともいうべきもの)が、展開してきたのである。