2014年4月20日日曜日

資本主義国家批判の方法を考える



資本主義国家批判の方法を考える

《レーニン『国家と革命』の問題点》

渋谷要



第1章 <収奪に基づく国家>と<搾取に基づく国家>との違い



 レーニンの『国家と革命』は、「国家論」として論ずるべき論述方法としては、妥当な論述方法をとっていると考えられるが、サブタイトルに「マルクス主義の国家学説と、革命におけるプロレタリアートの任務」とあるように、具体的に1917年の10月蜂起の前に書かれたものであり、ボリシェビキ全党と彼らの民兵組織、労働者政治部隊であった「赤衛隊」を、武装蜂起に向けて意志統一し、右派エスエルとメンシェビキの民主主義秩序派路線では、革命を最後まで貫徹することができないという党派闘争の意思統一を内容とするものであった。したがって、これを、マルクス主義国家論の一般論として読んだ場合、きわめて、マルクス主義国家論について、一面的な理解となる以外ではない。

端的に言って、国家暴力論が、ゴジラ化(極度に強調され中心命題化されている)している。そもそもレーニンの『国家と革命』は、ロシア革命という「蜂起―プロ独」闘争の理論的意志統一の内容をもつものだから、むしろ、こういってよければ、それは、そのようにしか、書けなかった側面もある。

 


また、レーニンの生きた時代は、マルクス国家論の中心的論考となる『ドイツ・イデオロギー』も、まだ発見されていなかった時代的制約もあり、また『経済学・哲学草稿』や『グルントリッセ』(経済学批判要綱)も知られていなかったころのことだ。

 こうした、主客両面での制約において、『国家と革命』は、マルクス主義国家論の全体像としては、これから見るように、きわめて、過程的・途上的・部分的なものであるということができる。



まず、ひとつ問題点を、あげることからスタートしよう。

  1. レーニンの国家論における「階級支配」の定義について。資本主義の「階級支配」(搾取中心)とそれ以前の社会の階級支配(収奪)の区別がない。
  2. それは、<収奪>が、経済外的強制にもとづくものであるのに対して、<搾取>が、労働力の商品化に基づき、流通過程が生産過程をとりこんで自律的に経済循環を行う、経済外的強制なしの社会=資本主義社会でのものであるという、根本的な違いを捨象するものである。
  3. この場合、何が問題となるかというと、収奪を基本とした社会と、搾取を基本とした社会では、階級支配の政治的社会的構成が、明確に異なる点である。
  4. 収奪をこととした前資本主義の諸社会では、支配階級=国家権力。これに対し、資本主義では国家権力――市民社会という構成のもとで、資本家(階級)は、ブルジョア民主主義政治秩序を媒介に階級支配を貫徹する。その場合の機制は、資本―利子、土地―地代、労働―企業者利得と賃金の三位一体的な構成の下、諸個人は自由な商品所有者の交換関係として、その役割を担い、階級関係はかかる三位一体的な「自由幻想」(マルクス)の下に、隠蔽される。この自由な商品所有者の交換関係という階級関係の隠ぺいを通して、個人にとって自由平等なブルジョア民主主義が成立する。この個人主義の経済的政治的破産が起こされたときは、国家有機体論にもとづく社会実在論的な全体主義に転化する。この場合、共同幻想は前者の場合は「民主主義国家(の公共的秩序)」であり、また後者では、日本では、「皇室を宗家とした家族国家(天皇の赤子論)」「八紘一宇」などといわれたものであった。国家共同幻想は、国家暴力の正当化の論理として登場するのであり、これら「幻想」と「暴力」の二つを実体化させて、対立させるようなものではない。

    だが、「幻想」か「暴力」か、どちらが「本質か」という問題は、とくに問題ではない。現実の中では、国家とは、治安維持法との闘いと八紘一宇との闘いが帝国主義権力との闘いでは、一体でしかないように、また、秘密法と「自由と民主主義」という共同幻想との闘いが一体でしかないように、それは、現実問題としてはすでに、解消される問題である。だから、この場合は、<国家共同幻想論者が、「国家暴力」に対して、これを過小評価することに対する闘い>ということだけが、課題となるだろう。問題なのは、次の点にある。



5.レーニンの国家論での、「階級支配」の定義は、資本主義以前と資本主義成立以後の(4)で見たような根本的な違いを区別しているとはいえず、また、レーニンが、エンゲルスの『家族・私有財産および国家の起源』などでの「第三権力論」(次回以降、後述する)で、その「階級支配」(国家)に関する解説をなしているがゆえに、歴史貫通的な俗流的政治支配の形態論的な規定に陥没してしまっていることにこそ、あるのだ。ここに、エンゲルス・レーニン・スターリンと連なる「唯物史観主義」(形態論的なタダモノ史観)が横たわっており、そこでは、資本主義国家権力の独自の構成的特徴が、まったく不十分にしか説明できないということになっているのである。それでは、一体何と如何に闘うのかということが措定できない。



第2章 階級支配分析の方法をめぐる問題



誤解のないようにいいますが、本論はメンシェビキ主義(近代民主主義)の立場からのレーニン批判ではありません。この点を前提として、本章ではレーニンの言説と対話する。


【1】レーニンは『国家と革命』「第一章 階級社会と国家」で、つぎのように、問題意識をのべている。

「マルクスによれば、国家は階級支配の機関であり、一階級が他の階級を抑圧する機関であり、階級の衝突を緩和させながら、この抑圧を法律化し強固なものにする『秩序』を創出することである」。そして、「『国家』は階級を『和解』させるという小ブルジョア理論へ、たちまち完全に転落してしまった」エスエル(右派エスエル)とメンシェビキを批判し、国家は「階級対立の非和解性の産物」であり、「階級対立が和解させることができないところに、その限りで、発生する。逆にまた国家は、階級対立が和解できないものであることを証明している」(以下、レーニンからの引用はレーニン全集第25巻より)と論じている。



つまり、1917年ロシア革命は、革命の前に立ちはだかる国家権力を打倒し、ソビエト運動として国家権力と二重権力状態を形成している革命派が権力を武装蜂起によって奪取する以外、革命権力を樹立することはできない、というレーニンのボリシェビキ革命勢力に対する意思統一の内容がはっきりと表明されているものにほかならない。



この場合、このレーニンの「階級対立の非和解性の産物としての国家」という規定自体は、マルクスの国家論としては、その<一つの>ポイントをなすものといえる。レーニンの意図としては「普通選挙権」を「ブルジョアジーの支配の道具」とエンゲルスを援用して批判し、「常備軍と警察」を中心とする国家の暴力装置」「武装した人間の特殊な部隊」としての国家のゲバルト装置に対する闘いの意志統一を目的にしたものであった。


だがこうした「国家暴力」論<のみ>では、資本主義的搾取に基づく資本主義国家の特徴的構成は不十分にしか把握できない。また、これから見るように、以下のようなエンゲルスからの引用内容で説明をなそうとしたことによって、その不十分さを決定づけることになったのである。



(注:なお、レーニンの「国家暴力」論と社会主義との関係の問題がある。興味のある方は、例えばプーランツァス『国家・権力・社会主義』原著1978年、ユニテ、1984年、285頁以降を参照してほしい)



【2】レーニンは「国家=階級支配の機関」を論証するためにエンゲルスの『家族・私有財産および国家の起源』から、例えば次のような個所を引用している。

「相争う経済的利害をもつ諸階級が無益な闘争のうちに自分自身と社会を滅ぼさないためには、外見的にはこの衝突のうえに立ってこの衝突を緩和し、それを『秩序』の枠内にたもつべき権力が必要となった。そして、社会から生まれながら社会の上にたち、社会に対してますます外的なものとなっていくこの権力が国家である」。

 これはいわゆる、支配―被支配の諸階級、この相争う二つ以上の階級の意志(Macht)のうえに立つ、第三のMacht(意志)としての国家権力として、「第三権力論」と、いわれてきたものだ。

 これを一般的な<行政的国家>の定義とするならば(この解釈をめぐる問題について興味のある方は、本論の解釈とは<異―同>があるが、滝村隆一(保守論客だった竹村健一ではない―笑)『マルクス主義国家論』、三一書房、1974年、121頁以降を参照してほしい)、それは、<階級対立を統御する政治委員会>としての統治機構の歴史貫通的な一般論としての定義が与えられていること以外ではない。



 また、エンゲルスの『反デューリング論』から、次のように引用している。

「階級対立のうちに運動してきたこれまでの社会には、国家が必要であった。言いかえれば、そのときどきの搾取階級(この定義が、間違っている――引用者)が自分たちの外的な生産諸条件を維持するため、したがって、とりわけ現在の生産様式によってきめられている抑圧条件(奴隷制、農奴制あるいは隷農制、賃労働)のもとに被搾取階級を暴力的におさえつけておくための組織が必要であった。しかし、国家がこうしたものであったのは、それがそれぞれの時代にみずから全社会を代表していた階級の国家――古代では奴隷所有市民の、中世では封建貴族の、現代ではブルジョアジーの国家――であったにすぎなかった。それはついに実際に全社会の代表者になることによって、自分自身をよけいなものにする」。エンゲルスの論述はここから国家の死滅へと至るという舞台回しとなり、「自由な人民国家」の形容矛盾(自由と国家との矛盾)を批判することになるわけだが、このような国家に関する論述を、レーニンは、「被抑圧階級を搾取する機関としての国家」の死滅の規定としてもちいているのである。



これらにおいてわかることは、収奪に基づく国家(支配階級=or≒国家権力)と、搾取にもとづく国家(個人は自由平等の仮象の下に市民社会を構成し、資本家階級は議会制度をはじめとした民主主義政治秩序を媒介に階級支配を展開する)での支配の区別が、全くないものとなっているということだ。

これは歴史汎通的な国家《なるもの》の一般的な形が形態論的に描写されているにすぎないものにほかならない。これでは、歴史的諸社会における国家の特質が、一般的な生産手段所有者の政治支配として直接的に規定されるだけであり、それらの各々の特質的構成は抽象化されるという論法に、それはほかならない。

(注:こうした方法論に対し、マルクスの「フォルメン」(「資本主義的生産に先行する諸形態」、『経済学批判要綱』所収)での、歴史的諸生産形態の分析は、非常にすぐれたものだと、いうことができるだろう)。



【3】つまり、エンゲルス・レーニンの以上のような論述は、<政治革命>の必要性から言われるものとしては、191718年においては、「国家暴力」の論証としてはクリアーしたわけだが、<社会革命>を射程として、資本主義国家の搾取に基づく基本構造を、その社会的基軸性を中心に解明することにおいてはこの規定では、まったく不十分なのである。レーニンのエンゲルスからの引用による定義では、資本主義的搾取に基づく国家の構造的特徴を内容上の対象とするものではなく、国家(階級支配)のありようを歴史汎通的な国家権力の一般的一面的な位置づけの規定に、抽象するものにすぎないのだ。



第3章 資本主義における階級性の解明としての経済学



【1】 ここで、収奪と搾取との区別の問題が登場するのである。

宇野弘蔵は次のように述べている。

「資本主義に先立つ諸社会もその範囲は種々異なるにしても、社会生活をなすのであって、その社会的経済生活は……何等かの社会的規制を要するのであるが、それは何らかの宗教的な、慣習的な、権力的な、あるいは政治的な制度をもってなされたのであった。いいかえれば経済原則(社会的再生産のシステムのこと――引用者)は純経済的な方法をもってではなく、多かれ少なかれ付随的な要因を加えられた方法によって遵守されてきたのである。商品経済はその点では全く異なっている」(『経済学方法論』、東京大学出版会、67p)。



「資本主義社会は商品経済を根底とし、それを全面的に展開するものとして、歴史的に一社会をなすのであるが、それは封建社会と異なって直接的な支配服従関係を原理とする階級社会ではない。表面的には、商品交換という、自由と平等を本性とする社会関係を基礎とするものである。しかしそれは……労働力自身を商品化する資本主義社会としてはじめて歴史的に一社会をなすのであって、旧来の階級的社会関係をもこの形態のうちに解消して、いわゆる近代化を実現し、その階級性は、商品形態に完全に隠蔽されることになる。科学としての(この「科学としての」という表現には、引用者は違和感をもっていますが――引用者)経済学が初めてそれを暴露するのである」(『経済原論』、岩波全書、1964年、222223p)ということになるわけである。



そこで、その前資本主義社会との構造的な相違として、前資本主義社会における「収奪」と、資本主義的搾取の相違という話になる。



【2】収奪にもとづく社会・国家では、経済外的強制が支配している。それは、封建的土地所有者が直接生産者である農民から地代を徴収するために組織していた強制力として形成していたものだ。領主のもつ武力と裁判権を基軸とした身分的支配と、土地への農民の緊縛(移動・移住の自由がないか、もしくは制限されているという意味)などを通じて展開した社会制度だった。



【3】それに対して、搾取にもとづく社会・国家とは、労働力の商品化にもとづき、労働・生産過程(価値形成・増殖過程)における資本の労働に対する処分権の発動をつうじて、労働者の「必要労働」(賃金分の価値に対妥当する時間労働)に対する「剰余労働」(剰余価値の産出として消費される時間労働)の率を高めることを、つまり搾取率・剰余価値率を高めることを土台に、最終的には利潤率を上昇させることをもって成立する搾取の機制に基づく社会だということである。



以下は、資本家階級と労働者階級の階級対立が、どのように非和解性があるものとしてつくられているのか、その基礎にある<機制>の分析であり、マルクスの『資本論』や宇野弘蔵の『経済原論』などで論じられている内容ということになる。



資本家的商品経済社会の労働生産過程(価値形成・増殖過程)においては、商品価値w=不変資本(生産手段)C+可変資本(労働力)v+剰余価値mという構成があたえられる。この場合、ポイントは、<v+mは生きた労働vが生産した価値>だということである。労働力が可変資本というのは、剰余価値mの生産というように、価値を増殖させるから。生産手段が「不変資本」なのは、価値を増殖するのではなく不変のままで生産物に価値を移転するから。



ここで注意を要するのは、「必要労働時間」と「剰余労働時間」という時間が区切られてあるわけではないということだ。生産過程では、労働力は「新たな価値を形成する」(新たな商品生産をなす)が、「剰余価値は、労働力の買い入れに支払われた価値とこの新たなる価値との差額に他ならない。とくに剰余価値として生産されるわけではない」(宇野弘蔵『経済原論』)ということだ。



また利潤の取得だが、例えば「最大限利潤の法則」といわれるもので「最大限の利潤」<なるもの>を得るというようには、資本家は利潤を得るということにはならず、市場の競争を通じて形成された<平均利潤率>(による市場生産価格(費用価格+平均利潤)の形成)に基づき、市場を媒介に、より生産性の高い企業に、剰余価値がより多く分配されていくことをとおした利潤の配分が展開することになる。



ここで、<商品価値>は、<生産価格>に転形する。



  1. 労働生産過程(=価値形成・増殖過程)で展開していた、

<商品価値>W=不変資本(生産手段)C+可変資本(労働力)V+剰余価値m(このv+mが、生きた労働ⅴが生産した価値)は、

B.<生産価格>=費用価格K(C+V)+平均利潤Pとなる。この場合、剰余価値を生み出したVは、剰余価値を生み出さない(=価値を増殖しない)不変量としての費用価格の一部と規定される。そしてv+mから分離した剰余価値mが、平均利潤Pになる。



ポイントは、労働力商品のコストがまさに文字通り<投下資本としてのみ>の位置づけを与えられ費用価格とされることで、それ自体、利潤(――剰余価値)を生み出さないものとして扱われ、労働力の剰余価値を生産する可変資本としての存在が完全に隠蔽される。このことを通じて剰余労働の搾取・生産ということが隠蔽されるのである。



この場合、利潤率の機制がはたらく。剰余価値は資本家の立場から見れば総資本(投下資本総額C+V)の増加分である。だから、総資本に対する増加分の値が利潤率として定立する。つまり利潤率「剰余価値m/総資本=m/C+V」。これにより、増加分の利潤率での計算は、剰余価値(m)が労働力(V)によって増加(剰余労働)分として産出されていることを隠ぺいし、総資本(C+V)にプラスして与えられたということになるのである。



又さらに、このような生産価格による販売の結果をつうじて、市場の需給関係の諸結果にもとづいた、各々の労働実態への労働力と生産手段の市場をつうじた比例的配分が実現されてゆくことになる。

また、そのような社会では、労働力商品の担い手である労働者は、資本家から身分的関係としては自由であり、自由・平等な「市民」となっている。


(これらが、『資本論』の第一巻と第三巻でのべられている搾取論についての概要だが、こうした機制が、具体的にどのように、価値を配分するかは、資本論第二巻で展開された社会的再生産による社会形成のモデルをとおして把握する必要があるが、本論では、これ以上、複雑にするのは論旨に反すると考え、省略する)



【4】宇野は述べている。「中世的な農民のように領主に対して直接的な支配従属関係にあるものにあっては、その労働力を自由に商品として販売するというわけにはいかない。かくて資本の産業資本的形式は、一方で、貨幣財産の蓄積と、他方でマルクスのいわゆる二重の意味で自由なる、すなわち支配従属関係から自由であると同時に、自己の労働の実現のために必要な生産手段をもたないという意味で、それからも自由な、いわゆる近代的無産労働者の大量的産出によって初めて可能なことになる。後者は、いわゆる資本の原始的蓄積の過程として、……領主と農民との支配従属関係が一般的に破壊され、近代的国民国家に統一される過程の内に実現されたのであった」(『経済原論』、4344p)。



以上のことを、簡単に言うなら、収奪に基づく社会とは、階級関係が露出し、それが王様の権威とかなんとかで身分社会が、むしろ正当化されている社会。



これに対し、搾取に基づく社会は、商品経済社会の商品所有者の交換関係(労働力商品の所有者としての労働者と、生産手段の商品所有者としての資本家との契約などという関係、etc)に階級関係が隠蔽され、諸個人は、自由平等な「市民」となっている。階級関係が隠蔽されている社会。



「格差社会」もそれは「貧富格差」とのみいわれ、それが階級的搾取の徹底化を目的とした資本家階級の新自由主義的方針だということは隠蔽され、景気循環の問題にされて、例えば「不況からの脱却を」などという問題に一面化・矮小化されている。



こうして、前資本主義と資本主義とは、おなじ階級社会といっても、その構造は、全く違うものであり、そこにおける、社会革命の課題も、こうした構造を対象化してはじめて、明確になるということにほかならない。



●なお、「価値論」でのこれ以上、詳細な解明は、拙著では『アウトノミーのマルクス主義へ』(社会評論社)の第二部第一章「資本の専制」、第二部第二章「資本の物象化とブルジョア・アトミズムの形成――三位一体的範式による階級関係の隠蔽」を参照してください。(次回は、第4回(最終回)「廣松渉の国家の4条規定」です)



4章 アルチュセールの「重層的決定」と廣松渉の「国家の4箇条」規定



【1】レーニンの<支配階級=支配的所有階級=国家権力>としての国家権力論では、近代国家の機能が総合的に分析できない。結局、「国家暴力」論の一面的強調は、暴力的権力機構(OrganGewalt)と経済的下部構造のヘモニーである支配階級の政治的社会的決定との<直接的>な関係として国家を見るという事でしかない。それは、重層的でない<一元的>な決定としての、経済的下部構造決定論の一つの形をなすものということができるだろう。



ここには、例えば端的に言って、アルチュセールが論じたような<重層的決定>という考え方が、欠如している。ここでは字数の関係上、方法論的な指向性の範囲に引用は限定する。



「マルクスでは、経済と政治の暗黙の合致……は消え、そのかわりにあらゆる社会構成体の本質をなす構造―上部構造の複合体における、規定的諸審級の関係という新しい概念が現われる。……マルクスはわれわれに『鎖の両極』をあたえており、探求すべきものは両者のあいだである、とわれわれに告げている。つまり、一方では(経済的)生産様式による最終審級による決定があり、他方では(政治的――引用者)上部構造の相対的自律性とその独自の有効性がある」(「矛盾と重層的決定」、『マルクスのために』所収、原著1965年、平凡社ライブラリー、1994年。181182p)。


「われわれとしては、ここで、経済的なものによる最終審級における決定に対する有効な諸決定(上部構造および、国内的国際的な特殊な状況から生じる)の集積と呼ぶことのできるものをとりだすだけで充分である。ここにおいてはじめて、わたしが提起した重層的に決定される矛盾という表現が明らかになるように思われる。……この重層的決定は歴史の一見して特殊な、あるいは異常な状態(……)にかかわるものではなく、普遍的なものであり、経済的な弁証法はけっして純粋状態で作用するものではなく、……最初の瞬間にせよ、最後の瞬間にせよ、『最終審級』(経済的下部構造による決定のこと――引用者)という孤独なときの鐘がなることはけっしてない」(同上184185p)。



レーニン『国家と革命』のような、経済的支配階級と国家暴力機関の単線的・直接的関係ではなく、こうした重層的決定という事を、アルチュセールは、考えた。そして、このアルチュセールとは別の角度から、国家の諸機能・諸要素に則して、この重層構造を、<要素概念化>したものとして、廣松渉の「ドイツ・イデオロギー」の「4箇条」規定があるだろう。



【2】廣松は、マルクス・エンゲルス(初期エンゲルス)の『ドイツ・イデオロギー』の国家論を素材に、「それは次の四箇条に整理できます」(廣松渉著作集11、岩波書店、343頁)として4箇条の規定を次のように示している(『唯物史観と国家論』第一章「ドイツ・イデオロギーの国家論」。講談社学術文庫。岩波書店著作集第11巻所収)。

  1. 「幻想的な共同体としての国家」
  2. 「市民社会の総括としての国家」
  3. 「支配階級に属する諸個人の共同体としての国家」
  4. 「支配階級の支配機関としての国家」この4規定である。

字数の関係で、廣松の説明はここでは省略する。拙著では『国家とマルチチュード』(社会評論社、2006年、93頁以降を参照のこと)。

これを、本論の趣旨に則して展開すると以下のようである。

階級の非和解性から、支配階級キャピタリスト(ブルジョアジー)は、その<階級支配のための機関としての国家>④を形成する。それは「官僚的軍事的統治機構」であり、警察権力も中心的な役割を担っている。だからまた、国家は<支配階級の諸個人の共同体としての国家>③である。他方で、搾取の機制は、自律的な商品所有者の交換関係を三位一体的範式のもとに形成し市民社会を定立する。この自由平等な<「市民」社会の総括としての国家>②の機能が必要となる。国家は、そもそも、分業的に分裂し、アトム化した諸個人の利害対立の調停・統合をなすとともに、「公共の福祉」という幻想性によって正当性を形成・維持するが、それは、社会契約論的には民主主義的幻想、社会実在論的には軍国主義的幻想であったりするが、いずれも、これが<幻想的な共同体としての国家>①であり、社会の政治的社会構成を大きく統合し、また逆に、一人ひとりの価値観に入って、統合する機能を持つ。



(※ 以上の場合、こうしたいわゆるマクロ権力分析に対し、ミクロ権力分析、例えば、フーコーのディシプリン(規律・訓育)権力論、パストラル(牧人―祭司型)権力論、バイオ・ポリティクス(生―政治)論などが、どう対応するか等は、本論の範囲を超えているので省略する。拙著では『国家とマルチチュード』(社会評論社)62頁以降、78頁以降、『ロシア・マルクス主義と自由』(社会評論社)106頁以降、127頁以降参照)



この4規定は、これは「折衷」ではない。4概念は関係主義的には<一つの権力的諸関係>を、概念的に4概念に実体化して説明したものにほかならない。それを「折衷」というのは、この関係主義的方法論ではない、実体主義的な考え方に立つものと言えるだろう。「階級支配の手段である国家」は、「市民社会は総括」しないのかね。それは「支配階級の諸個人の共同体」ではないのかね。「階級支配の手段である国家」は、支配階級のイデオロギーとして存在しないのかね、「階級支配と、その暴力的貫徹のためのゲバルト」の行使を「公共の福祉」などとして正当化するために国家共同幻想は存在するのだ。



【3】こうしてこの4箇条はすべて、相互に連関しているのであり、それ以上に<一個の権力的諸関係として同一>なのであって、これらの一項を他の一項と、実体的に・あるいは対立的に区別することはできないのである。



これらの国家の在り方を通じて、ブルジョアジーが労働者人民を支配するための<運命共同体としての国家>という幻想的共同態としての国家が定立する。この「共同幻想」というのは、平和的な階級対立の解決という意味では必ずしもない。否! それよりはむしろ、直接的には、精神拘束的・恫喝的な禁忌・禁制などによる抑圧や禁制などを犯した者に対する罰則、国家暴力の行使などとして、定立している。端的には戦前治安維持法がそれだ。同法は、国体という共同幻想に対する禁制を規定し、これを犯したと公安警察機関が認定した者を罰する国家共同体法制にほかならなかった。また、秘密法が規定する、「国家の安全保障のため」という国家共同幻想の下で、ある人(人々)を「特定秘密を保有する者の管理を害する行為」などという<禁忌・禁制(共同幻想的規範拘束性)を破る行為>を行った者として、国家権力が一方的・恣意的に決めつけて「犯人」にでっち上げるなどである。まさに国家共同幻想とは、それ自体が、国家暴力の組織者である。



まさに「共同幻想」と「国家暴力」をば、実体概念として自立化し、どちらが、国家の本質かなどといっても、それには何の意味もないのである。「共同幻想」とはMacht(共同意志)であり、国家暴力は、まさしくGewalt(暴力)であって、それらはどちらも、ある種のOrgan(機構・機関)をもって機能するのであって、権力作用の機能が違うだけである。まさにそれらは、一つの<権力的諸関係>をそうした機能に実体化して概念的に抽出しただけのものであり、「共同幻想」「国家暴力」は、実体としては<ただ一つの>分かつことができない<権力的諸関係>にほかならい。



だがここで、本論の第一回の(4)でも述べたように、以下のことは確認すべきことである。

それは、「国家共同幻想」論者の中に国家暴力を過小評価したり、国家暴力の不正と闘うことに消極的になったりする傾向があるということだ。こうした傾向に対しては、徹底的に批判する必要があるということは課題として確認する必要がある。

たとえば、安保体制をめぐるものや、1960年代以降の千葉県三里塚空港建設、原発建設、等々、多くの社会問題には、警備公安警察の指揮の下、警察機動隊の大量投入によって、国家テロという以外ない国家暴力での反対派住民や学生・労働者に対する弾圧がおこなわれてきた。国家暴力を軽視すべきではないのは、自明だ。



【4】最後に、廣松哲学では、「国家」とは、ある種の<物象化の機制>だと規定される。ここでは、次の点<のみ>にふれておきたい。国家とはそれ自体が自生的に独立自存してあるのではなく、国家というものをつくりだした階級的社会的諸<関係の産物>としてある。ここでポイントは、法律的秩序形成をつうじて、基本法の規定態である国家が逆に社会的諸関係をつくっていると錯視・錯認することが、通常の市民社会での「常識」(この体制的な「常識」を、廣松哲学では「通用的真理」「通用的正義」などという)となっていることだ。国家主義やレイシズムがはびこる温床となるものの、それは一つだろう。



まさにこの「重層的決定」と「4箇条」規定の解明から、本論としては、レーニン『国家と革命』の単線的・機構的暴力国家論は、マルクス主義国家論としては非常に一面的であり、現実の国家分析においては、いかなる対象に対しても分析は不十分となる以外ないと考えるものである。 (了)

2014年4月8日火曜日

1921年3月ロシア「クロンシュタット叛乱」とは、なんだったか

最終更新 2021・4・06

1921年3月ロシア「クロンシュタット叛乱」とは、なんだったか 

                                       渋谷要





●クロンシュタット綱領は何を示しているのか


ボリシェビキは1918年5月の食糧独裁令以降、「戦時共産主義」という軍事統制経済を敷き、労働者と農民の自律的な革命運動、とりわけ、農民革命の成果を抑え込んでいきます。内戦が終了する時期、労働者のストライキや農民反乱が顕著になってゆきます。その頂点にクロンシュタット叛乱が勃発したのです。



ここでは字数の関係で、その叛乱のすべてを論じるのはむりであり、政治内容を中心に見てゆくことにしましょう。



1921年初旬、内戦の終結期、ペテログラードの労働者ストライキに連帯して軍港クロンシュタットで赤軍の水兵を主力とした反乱がおきました。その闘いはソビエト革命の思想に、官僚化する労農政府が復帰することを提起するものでした。



アナキストのイダ・メット「クロンシュタット・コミューン」(『クロンシュタット叛乱』、鹿砦杜)が伝えるところによると、反乱の直接の背景には赤軍の官僚化がありました。



19212月、バルチック艦隊共産党員水兵会議は海軍における「政治部」=コミサール(政治委員)の完全な廃止を要求したのです。コミサールとは、事実上共産党のヘゲモニーでソビエト権力が運営されるように配置された監督官のことです。バルチック艦隊政治部の官僚主義化、政治部の「独裁的態度」と指導方法に対し兵士たちは隊内民主主義の復活を要求します。そして19211月だけで5000人の水兵が共産党を離党したのです(1619頁)。



ペテログラードの労働者ストライキは、ブレスト講和によって生じた、都市部と農業生産地帯との断絶に端を発した、飢餓問題にありました。それは、「戦時共産主義」という「物々交換」などによる商業の否定と労働者自主管理の否定など、一連の官僚独裁によって、ますます悪化していたのです。



1921年、2月、クロンシュタットの水兵たちは、ペテログラードの状況を知るために代表団を派遣します。そして、多くのストライキ、工場を視察し、労働者たちと意見交換します。そして28日、クロンシュタットにもどり、ただちに以下のような「決議」を表明しました。



これは戦艦「ペトロパブロフスク」の艦隊乗組員総会の決議といわれるものですが、これが、クロンシュタット水兵総会や、赤衛軍の多数の部隊によって支持され、最後にクロンシュタットの全労働者大会において賛成されるとなってゆきます。これがのちに「クロンシュタット綱領」といわれるものとなります。



綱領の全文を引用します。この要求項目をみれば、1921年、革命ロシアがいかに官僚主義的に変質していたか、その変質は、「しかたないもの」ではなく、これまでこのシリーズを読んできた方は、ボリシェビキによって意図的に推し進められたものだったことがわかるものと思います。


  1. ソビエト再選挙の即時実施。現在のソビエトは、もはや労働者と農民の意志を表現していない。この選挙は自由な選挙運動ののちに、秘密投票によって行われるべきである。
  2. 労働者と農民、アナキストおよび左翼社会主義諸政党に対する言論と出版の自由。
  3. 労働組合と農民組織に対する集会結社の権利およびその自由。
  4. 遅くとも1921310日までにペトログラード市、クロンシュタットそれにペトログラード地区の非党員労働者、兵士、水兵の協議会を組織すること。
  5. 社会主義諸政党の政治犯、および投獄されている労働者階級と農民組織に属する労働者、農民、兵士、水兵の釈放。
  6. 監獄および強制収容所に拘留されているすべての者にかんする調書を調べるための委員会の選出。
  7. 軍隊におけるすべての政治部の廃止。いかなる政党も自らの政治理念の宣伝にかんして特権を有するべきでなく、また、国家からの資金援助でさまざまな文化的グループが設置されるべきである。
  8. 都市と地方との境界に配備されている民兵分遣隊の即時廃止。
  9. 危険な職種および健康を害する職種についている者を除く、全労働者への食糧配給の平等化。

10、すべての軍事的グループにおける党員選抜突撃隊の廃止。工場や企業における党員防衛隊の廃止。防衛隊が必要とされる場合には、その隊員は労働者の意見を考慮して任命されるべきである。

11、自ら働き、賃労働者を雇用しないという条件の下での、農民に対する自己の土地での行動の自由および自己の家畜の所有権の承認。

12、われわれは、全軍の部隊ならに将校訓練部隊が、それぞれこの決議を支持するように願っている。

13、われわれは、この決議が正当な扱いの下に印刷、公表されるよう要求する。

14、われわれは、移動労働者管理委員会の設置を要求する。

15、われわれは賃労働者を使用しないという条件下での、手工業生産の認可を要求する。



以上の15項目でした。ここには官僚制国家化する革命ロシアへの告発があります。それが否定され、行われていないから、要求したのです。



これらの要求は、ペトログラード労働者ストライキと連帯し、ソビエト民主主義を復権させるためのものでしたが、同時に、穀物調達政策に対してタンボフ、ヴォルガ、ウラル、西シベリアなどで広がった、農民反乱の闘いを支持するものでもありました。



●ネップへの転換と大虐殺でしのいだレーニンたち



「農民は徴発を拒否し、輸送車を止め、その荷を奪った。鎮圧のために派遣された部隊は、村ぐるみで蜂起する村々に、行く手をはばまれた。軍が農民の側に寝返ってしまうこともあった。政権は、叛徒を鎮圧するに必要な部隊を手にしていなかった。農民が蜂起するのと同時にクロンシュタットの爆発が、突発した。この場合も、1921年の物質的困難が決定的な役割を演じている」というのは、廣松渉『マルクスと歴史の現実』(平凡社版、246頁以降)で、カレル・ダンコースという欧米のソ連史の研究者を引用してのべられているものです。



クロンシュタットは武装し、これらの要求を掲げた異議申し立てに突入しました。



クロンシュタットでは、共産党員も反乱します。「臨時党委員会」がつくられ、イリン(共産党の食糧供給委員)、ペルヴォーチン(党地方執行委員会議長)、カバノフ(党地区労働組合委員部長)を先頭に、780名が集団離党しました(イダ・メット前掲書42頁以降)。



レーニンらは、こうしたクロンシュタットを中心とした全国的な労農叛乱に直面し、戦時共産主義の撤回、ネップ(市場――商業――の復活、農民の余剰生産物の処分の自由、強制徴発を現物累進課税にかえる)で、対応することで、こうした抵抗闘争を封じることに成功します。



こうした政策の転回点でボリシェビキは、クロンシュタットを弾圧します。3月のことでした。



軍事人民委員のトロツキーは、次のような最後通牒をクロンシュタットの臨時革命委員会に対し発しました。36日、トロツキーはラジオで、つぎのように発令します。



「労農政府は、クロンシュタットおよび反乱戦艦が直ちにソビエト共和国の権威に服するよう要求する。私は、それゆえ、社会主義の祖国に向けて拳をふりあげたすべての者が、即刻その武器を捨てるよう命令する。……無条件に降伏する者のみが、ソビエト共和国の慈悲をあてにできるであろう。私は、現在、武力をもって反乱を鎮圧し、叛徒を屈服させるべく、準備を整えよ、との命令を発している。善良なる住民がこおむるであろう危害に対する責任は、反革命的叛徒の上に完全に帰せられるであろう。この警告は最後のものである。トロツキー 共和国革命軍事委員会議議長、カーメネフ最高司令官」。

(スタインベルグ『左翼社会革命党19171921』、鹿砦社、261頁)



そして、これにつづいて、赤軍など鎮圧にあたる者に、「雉を打つように打ち殺せ」と指令しているのです。



37日、クロンシュタット「臨時革命委員会」の機関誌「イズベスチャ」は、「陸軍元帥トロツキーは、3年間にわたる共産党員政治委員(コミサール)の専制政治に抗して叛乱を起こした自由クロンシュタットを脅迫してきた。……トロツキー氏よ、われわれは君の慈悲など必要としないのだ」と戦闘宣言を発しました。



38日、赤軍からの砲撃が始まり、316日以降、本格的な交戦状態に突入します。そして反乱は鎮圧されます。この反乱の交戦、相互殲滅戦では、双方に多くの万単位の犠牲者がでました。

「クロンシュタットは、一つの時代の終焉を示すものであった」と、スタインベルグは前掲書で書きました(274頁)。まさに1917年、武装蜂起で左翼エスエルやアナキストともにプロレタリア権力を樹立したボリシェビキ党は1921年には、人民抑圧権力に変質していました。その決定的な定立が、まさにクロンシュタット叛乱の弾圧を通じて画期されたのです。



●クロンシュタット鎮圧の最高責任者はトロツキーだった――反スターリン主義の始祖といえるのか


ところが、1927年、スターリンに国外追放となったトロツキーは、自らの政治主張の正当性を守ろうとするあまり、このクロンシュタット弾圧にかんして、自分は無関係だったと書きました。193776日、「再びクロンシュタット鎮圧について」(イダ・メット前掲書所収)がそれです。


トロツキーは「事件の真相は、私個人はクロンシュタット反乱の鎮圧にも、それに続く弾圧にも、一切関与していなかったということである。だがこの事実そのものは、私にとって何の政治的意味も持ってはいない。私は政府の一員だったし、反乱の鎮圧が必要だとも考えていた。だから鎮圧については責任を負っているのだ」と。



さらに、反乱が勃発した時はウラルにいて、党の第10回大会のためにモスクワに直行した。そこで「まず平和交渉をし、次に最後通牒を出す、それでも要塞が降服に応じなければ最後的には叛乱を軍事的に鎮圧する、という決定――この一般的原則に関する決定の採用には私も直接参加した。だが、決定が下された後は私はモスクワに留まり、軍事的作戦行動には直接的にも間接的にも関わっていない。それは完全にチェーカーの仕事だった」と逃げを打っているのです。「必要以上の犠牲者が出たかどうかについては、私は知らない」とも書いています。



これでは、トロツキーが共和国革命軍事委員会議議長としての責任をもっていたということ、そして少なくとも「最後通牒」と殺人指令を出したという個別の役割分担での行政的責任があるということ、それらの責任を、彼自身が隠していると言わざるを得ません。



そして最後に「私は革命を否定しない。この意味において、私はクロンシュタット反乱の鎮圧にかんして完全に責任を負うものである」と書いた。つまり、クロンシュタットは反革命だということです。



事実問題として自分の出した「最後通牒」と、殺人指令で、赤軍は行動にでたのです。これを「不関与」というのはいかがなものか。責任を隠ぺいしているのです。なによりも、「クロンシュタット・イズベスチャ」が、名指しした「専制政治」の「陸軍元帥」こそ、トロツキーその人だったではありませんか!



まさにクロンシュタット反乱は、革命ロシアの前衛独裁・官僚制国家化(スターリン主義化)が1921年には基本的には成立しており、そこではレーニンのトロツキーの<内なるスターリン主義>が問題となっていたということを象徴するできごとだったのです。




その弾圧の立役者の一人であるトロツキーのような前衛独裁(を後になってからも省察もしない、わけですから)の象徴みたいな人物が、日本の場合、反スターリン主義の新左翼運動の始祖とされてきたのです。もちろん、トロツキーからは、革命戦略や1930年代におけるスターリン主義批判などから、学ぶことは、多々あるわけです。それは、学べばいいと思います。しかし、この内戦期における軍政化という問題、このことも同時に再考すべき問題だと思います。クロンシュタット叛乱は、新左翼でもトロツキー主義系列などでは反革命という判断が多くをしめています。

 

 

 それは、すべてレーニン主義・トロツキー主義は間違っていない、歴史的な条件が、レーニンやトロツキーに正しいことをできなくさせたという、今やはっきり言って「レーニン・トロツキー信仰」としか、言えないものにほかなりません。いろんなことを、レーニン教条主義者やトロツキストたちは言っています。だけども、例えばレーニンは、「絶対的真理論者」であり、「唯一の前衛」主義者です。ボリシェビキ以外の政治的ヘゲモニーの存在を認めなかった。それが実際、内戦期であったことです。クロンシュタット叛乱は、その端的な事例をしめしているのです。