2014年3月19日水曜日

この間の反帝・反核運動とプロレタリア派的立場


 

この間の反帝・反核運動とプロレタリア派的立場

 ――共産党の多数者革命路線と都知事選における<有効性の論理>

渋谷要

 

<議会闘争は、別の手段による階級闘争の継続である>。これが、本論の立場だ。原発問題も階級闘争の問題として組織されるべきである。その方法でなければ廃炉は勝ち取れないというのがポイントだ。これがわたしのゼロベクレル派・プロレタリア(=反資本主義)派の立場である。これらの内容は本論の後半でのべるものとする。

 東京における反原発運動でいうと、たんぽぽ舎などが参加する首都圏反原発連合、このグループが主催する諸個人参加が圧倒的な金曜日官邸前抗議行動、その一角には日本共産党や社民党系などの運動が参加している。さらに、経産省前テント。大江健三郎氏などを象徴とした市民系、いわゆる新左翼系では福島原発事故緊急会議、東電前アクション、さらに新左翼系諸グループの運動展開がある。まだまだ、いろいろな動きがあるだろう。地域での運動など、多様な展開がある。

 その中で、これらの運動のヘゲモニーをつくってきたいくつかの運動体の考え方が、これらの運動を規定してきている。ここでは、金曜日官邸前抗議行動をけん引してきた一つの勢力である日本共産党の「多数者革命」という考え方にもとづくある種の方法論的傾向、都知事選挙で細川候補を応援した市民系の<有効性の論理>と定義できるもの、これらの、考え方と、ゼロベクレル派・プロレタリア派の立場から対話してゆきたいと考える。

 まず、「多数者革命」路線との対話から入ってゆこう。

 

●都知事選挙と首都圏反原連

 

2014年の都知事選挙では、反原連は都知事選挙で、宇都宮候補、細川候補などに反原発票が「二分」されることに対し、「反原連の支持候補なし」という事を表明した。これは官邸前デモに象徴される反原連のヘゲモニーが分裂することを回避した戦術としては、妥当なものであったといえる。もちろん反原連に参加する各グル-プ、諸個人がどの候補を応援しようと自由であり、例えばそれは、官邸前デモを先頭で主導してきた一つの勢力としての宇都宮候補を支持して都知事選をたたかった日本共産党とも矛盾しない形となった。

反原連の立場表明は次のようである。

かれらは2014年1月20日、「選挙において首都圏反原発連合は、原則として、特定の候補や政党に対する支持表明などは行いません」という立場を表明した。
 「私たちは、デモや抗議行動で幅広い多くの人が原発に反対の声をあげることを歓迎します。参加者が多くなるほど、様々な人が参加します。選挙で支持する候補者が違う人たちも共に立ち、声を合わせ、力を合わせ、原発に反対できる抗議行動であり続けるために、特定の候補や政党に対する支持は行わないのです。

反原連の構成グループやスタッフが何らかの意を表明する場合でも、それはそのグループや個人の意志であって、反原連の総意ではありません。

みなさんも、私たちも自由に自身の意思に基づいて適切に行動しましょう。

原発の無い未来のために」(http://coalitionagainstnukes.jp/

このことは、金曜官邸前行動を中心とした多角的に広がって存在している街頭デモを積極的におし進めることで無党派層を取り込んできた、議会政党である日本共産党の運動傾向・こういってよければ選挙戦術と合致するものにほかならない。それは一つの「分析視角」としていうならば、2012年に現出した紫陽花革命と日本共産党の綱領路線である多数者革命とのフレンドな併存関係を現象させてきたのであった、と分析することができるだろう。

 

●多数者革命とは何か

 

 ここで「多数者革命」が、問題となる。

「「多数者革命」とは、国民多数の利益を実現するために、国民多数の意思と行動によっておこなう社会改革をさす、社会科学の用語です。フランス革命やロシア革命など歴史上の革命のタイプと明確に異なり、民主的な普通選挙制度が普及し「国民主権」(国民が主人公)が原則になっている今日の資本主義国では、「多数者革命」は社会改革(世直し)の当然のあり方となっています。

 日本共産党は、この立場から、当面する政治革新の目標で一致する政党、団体、個人が力を合わせて国民多数の支持を獲得し、国会で安定した多数を占めて民主的政府を樹立し、そのもとで国民多数の合意をえながら日本社会を一歩一歩変えていこうと考えています」(理)、(「知りたい聞きたい/多数者革命の党とは」。1999年1月23日、しんぶん赤旗)。

 これが、多数者革命のわかりやすい用語解説的な規定である。本論では「多数者革命」の内容をマルクス・エンゲルスなどの古典文献に沿って論じた不破哲三『議会の多数を得ての革命』(新日本出版社、2004年)などの、内容紹介は紙数の関係上、省略せざるを得ないことをお断りしておく。が、もう少し、考え方を見るために、次の不破哲三の解説を引用しよう。

「資本主義は、封建制度にとって代わったばかりの新しい体制ではなく、ヨーロッパではすでに二百年、三百年という歴史、日本でも百数十年という歴史を持ち、国民は何世代、あるいは十何世代にもわたって資本主義の体制のなかで暮らしてきています。

そういう暮らしをしてきた人びとのあいだで、社会主義的変革のプログラム――まだ経験したことのない新しい社会の仕組みを示して、それへの多数の支持を獲得するということは、資本主義体制の矛盾がどんなに激しくなったとしても、簡単にできることではありません。

やはり、多数の力で一歩一歩社会を変えながら、国民自身が、社会というのは国民多数の意思で変えられるという確信を身につけ、その実績を踏まえてこの方向で進めばもっと立ち入った変革に前進できるとの自信を強めて一歩一歩すすんでゆく、これが多数者革命の発展の道だと思います。

 すなわち、社会主義的変革の思想が国民多数者の意識になるためには、国民が自分の意思と力で部分的にせよ社会を改革し、その成果の実績を積み重ねて、一歩一歩進んでゆく過程がどうしても必要になります。だから、多数者革命というのは社会の段階的な発展と必ず結びついてくるのです。」(不破哲三『党綱領の力点』、2014年1月、日本共産党中央委員会)。

 これは、「社会の段階的な発展と必ず結びついてくる」というのが、ミソの部分で、ロシア・マルクス主義であれば、歴史の法則に合致した合法則的な歴史認識に基づく法則的真理を体現した「前衛党」(日本共産党自身は「前衛党」規定は降ろしている)が革命の指導を行うとされてきたものを、歴史進歩史観にもとづく革命の合法則的発展という図式をもって、多数者革命が歴史的に妥当なものであると言いたいのである。

廣松渉の物象化論に基づけば、これ自体、歴史法則の物象化の機制(「歴史的真理」とされるものの実体化、法則から歴史がすすむという、実体化された法則<なるもの>の自己運動の観念)でしかないものだが、それは、本論の主題ではない。

 本論での検討対象となるのは、次である。 

「やはり、多数の力で一歩一歩社会を変えながら、国民自身が、社会というのは国民多数の意思で変えられるという確信を身につけ、その実績を踏まえてこの方向で進めばもっと立ち入った変革に前進できるとの自信を強めて一歩一歩すすんでゆく、これが多数者革命の発展の道だと思います」。という部分が、どのように、現実の政治課題に<適用される>かが、本論での問題である。<適用の論理>ということだ。

 

●天皇問題と多数者革命

 

まさにこうした考え方が、どのように適用されるのか。その代表的な例と考えられるものとして、天皇制問題がある。

 2004年1月、23回党大会での綱領改定で書かれたものに、日本共産党綱領「4、民主主義革命と民主連合政府」――(憲法と民主主義の分野で)の「11」に次のような規定がある。

「 11 天皇条項については、「国政に関する権能を有しない」などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する。

 党は、一人の個人が世襲で「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」。

 これは、どういうことだろうか。

「日本共産党綱領案のキーワード」(日本共産とホームページより)によれば、例えば次のようである。

・天皇制は憲法で決められた制度

 天皇制というのは、憲法で決められた制度であります。日本共産党の考えだけで、変えられるものではありません。日本の国の主人公である国民の間で、民主主義をそこまで徹底させるのが筋だという考えが熟したときに、はじめて解決できる問題であります。それまでは、私たちの好き嫌いいかんにかかわらず、憲法にある制度として、天皇制と共存するのが道理ある態度だと私たちは考えています。(日本共産党創立81周年記念講演)」

 

「天皇制と共存している時期に何が一番大事か。憲法のこの条項を守ることです。国政に関する権能がないのに、昔のように、天皇にだんだん政治的な権能を持たせようとするような動きとか、君主扱いするような動きとか、そういうものが、いろんな形で顔をだし、むしろ強くなってゆく傾向にあります。これにたいして、日本共産党が、憲法に照らして、そういう間違いをきちんと正そうじゃないか、天皇制の問題でも、憲法どおりの政治の運営、国の運営もやろうじゃないか、こういうことをきちんとやることが大事です。そのことを私たちは今度の改定案で具体的にうたいました。(日本共産党創立81周年記念講演)」

目標としては天皇制をなくす立場に立つ

 私たちは、目標としては民主主義の精神、人間の平等の精神にたって、天皇制をなくす立場に立ちます。これをどうして実現するかといえば、主権者である国民の多数意見が、その方向で熟したときに、国民の総意で解決する、ということです。これが、天皇制の問題を解決してゆく、道理ある方法だと考えて、今度の綱領に明記したわけであります。(日本共産党創立81周年記念講演)」

・「天皇制打倒」の旗はかかげていない

 戦後は、みなさんご存じのように、天皇制の性格と役割が憲法で変わりました。戦争前は天皇というのは、日本の統治者で、国の全権限を握った存在でした。ところが今の天皇は「国政に関する権能を有しない」、つまり、国の政治を左右する力はまったく持たないものだということが、憲法第四条に明記されています。だから、天皇制をなくさないと、私たちがかかげる民主的な改革、安保条約の廃棄もできないとか、国民の暮らしを守るルールもつくれないとか、そういうことはないわけです。だから私たちは、四十二年前に綱領を決めたときも、実際にはもっと前からですが、「天皇制打倒」の旗をかかげたことは一度もないのです。(日本共産党創立81周年記念講演)」

 つまり、せんじ詰めていえば、天皇制は憲法の制度であり、そうである限りこれと「共存」しなければならない。また、民主共和制をめざす共産党としては、歴史が進歩していく中で「国民の総意で解決」しなければならない。現在的には、保守政治による天皇の政治利用を認めず、象徴職を守らせるようにしてゆく、つまり、憲法の天皇規定を順守することが、基本だということになる。

 だから、ここでは「天皇制はいらない」と主張することは、共産党が否定する打倒論になってしまうだろう。

だが、そもそもこれでは、なぜ天皇制が問題かは見えてこない。ここには、象徴天皇の「公事」についての見解はのべられているが、天皇の「私事」についての見解は一切ないのである。だが、天皇制を問題にする場合、この私事を問題にしなければならない。

なぜなら、この天皇の「私事」とされている、宮中三殿に関する祭儀を中心とした国家神道儀礼こそ、戦前の現人神天皇の継続であり、まさに直接的にヤスクニ神社とフレンドな一体的関係が継続されているものに他ならないのだ。

そして、皇室の皇位継承儀礼である「私事」の大嘗祭は、「平成」大嘗祭の場合、「国事行為」とはならなかったものの、「公的行為」とされ国の皇位継承儀式に組み込まれるにいたったのであった。これに対し、憲法違反との批判が国内外で起こったことは周知の通りである。

ただしここで、指摘しなければならないのは、当時護憲派は、「大嘗祭粉砕」ではなく、「私事でやれ」と主張したということだ。つまり、それをとりおこなうことには反対しなかったのである。ここに「天皇の憲法規定順守」という護憲派路線が、天皇制に完全に武装解除したものであったということが、わかるだろう。

また「天皇制はいらない」というのは、象徴職と一体のものとして、神権天皇制が裏側に帯着していることにもとづき、それが天皇制の本体だからである。これを「私事」だけ否定すること、そのように表裏を分離することはできない。分離できるとするなら、それは現在の象徴職という「表」を消去するときだけである。なぜなら、天皇というのは、「プリースト・キング」(祭祀王)というのが実存だからだ。またそこが、名誉革命を経たイギリスとは違う独自性なのでもあるということだ。だから、打倒するというしかないのである。

多数者革命の問題がここにある。何が問題か。その問題は多数者獲得・多数派形成のための妥当性で政策の基準を決定し、それに意味付与することにある。「天皇制はいらない」というようなラジカルな問題設定は、多数者革命の否定になってしまうだろう。なぜなら、「天皇制はいらない」ということは、護憲派の基準を超え、現代日本では少数派になることだと、判断出来るからである。また例えば、皇室は認めるが安保は反対などと言う人の支持は得られなくなるだろうからだ。それは集票を課題とする議会政党としては妥当でないものとなるだろう。

だからそれは他方で、憲法の天皇制は認めるわけだから、「私事」も認めるとなるしかなく、天皇のプリースト・キング=現人神としての継続(に対する批判)を後景化する作用をもつということになる。

例えば、皇室が、「民主主義者」ぶりの姿勢を見せ、保守政権が戦争国家化を進めているときに「憲法を順守し平和を」などと言えば、その言説を評価するような、あり方をとることにもなる。つまり実際あることは、憲法の天皇条項の順守であり、「天皇制はいらない」はいらないとなる以外ないのである。

まさに多数派形成において妥当性があると判断される最大公約数で、政策が決定されるのであり、そこでは、戦術「左翼」主義的なものは論外としても、内容的にラジカルな路線はとられないことになる。

ある課題で共産党自身がラジカルなプロレタリア的政策と考えるような政策内容も、それが、多数派形成への妨げになるようにしか結果しないと判断すれば、それは、具体的な政策としては妥当性を欠いているとなり、もっと、別の多数派形成に結びつくような選択肢が選択されるという、そういうように、政策選択が誘導されることが起こりうるということだ。先の天皇制問題の例は、そのことを、示していると、私としてはかんがえるものである。

ただし、それは議会主義をとっている以上、少なくとも運動組織論的には、全部がまちがいだとは言えないものとしてあるだろう。ラジカル派としては、こういう共産党のような考え方の人々とも、民主的に討論できるようにし、また、共闘できるところでは、共にたたかえるように工夫してゆく必要があるということだけが、課題となるだろう。

だが他方でそれは、原発問題でいえば、さまざまな問題の前提になっているものとの、内部矛盾を顕在化させるものにも、なっているのである。

 その問題のひとつとして、東日本大震災でのガレキ処理の問題があった。

 

●ガレキ問題――<拡散>に賛成した共産党

 

以下は、日本共産党の代表的な見解だ。全文を引用する。

「がれき「広域処理」政府は責任をもった方策を」2012年3月18日

 

 東日本大震災により、ぼう大な災害がれきが発生しました。岩手県で約476万トン、宮城県で約1569万トンとなっており、それまで両県で年間に排出されてきた一般廃棄物の10倍、20倍にあたる量です。

 災害がれきは、いまも山積み状態となっており、岩手県、宮城県の被災地の復興の大きな障害となっています。

 

放射能への対策こそ

 

 災害がれきをできるだけすみやかに処理することは、被災地の復興にとって最重要の課題であることは言うまでもありません。

 ぼう大ながれき処理を被災地だけで行うことは困難です。政府が被災地での処理能力を強化することはもちろん、被災県以外の協力を得て、「広域処理」をすすめることが必要です。政府は、その方策を責任をもってすすめていくべきです。

 多くの国民が被災県のがれき処理を望んでいますが、ほとんどすすんでいない状況にあります。最大の障害は、政府が放射性物質への対策を真剣に行っていないことにあります。

 福島原発事故による放射性物質の拡散は、東日本の広範な地域に及び、それは被災県も例外ではありません。政府は、被災県以外の自治体にがれき処理 を要請し、4月6日までに検討結果を求めています。「広域処理」を受け入れ先の住民の合意を得てすすめていくうえで、いま必要なことは、政府が、がれきに 放射性物質が含まれることへの対策を真剣に講じることです。

 政府は、がれきのうち、特別に管理が必要な指定廃棄物は、セシウム134とセシウム137の濃度の合計で1キログラム当たり8000ベクレル以上 のものと定めています。これを超えるものは、国が処理することになっていますが、これ以下のものは、放射性物質が含まれていても、指定廃棄物とされないため、一般廃棄物と同様の扱いとされ、まともな対策が講じられていません。

 そのため、がれきの処理にあたって、焼却のさいの排気によって放射性物質が拡散するのではないか、飛灰の処理をどうするのか、あるいは、廃棄物や 焼却灰の埋め立て処分場周辺の放射線量が高くなることや、雨水・地下水などでもれださないかなどの心配が出されています。こうした懸念や不安にきちんとこ たえなければなりません。

 現在の8000ベクレル/キログラムという基準は、昨年6月の段階で原子力安全委員会が「当面の考え方」として示したものに準拠して審議されただ けのものです。これは、政府の試算でも廃棄物の処理に携わる作業者に年間1ミリシーベルト近い被ばくを容認するものです。住民の健康と安全を守る立場で、 放射性物質で汚染された廃棄物の基準と、放射線防護対策を抜本的に見直し、強化する必要があります。

 

基準と対策抜本見直しを

 

 「広域処理」にあたっては、政府が、こうした基準や対策を抜本的に見直して、住民の納得を得るとともに、受け入れ自治体にたいして、財政面を含む全面的支援を行う必要があります。

 東日本大震災と原発事故という未曽有の被災からの復興をすすめるために、政府が本腰を入れて取り組むことを強く求めます」というものだ。

 

いろいろな政府の<やり方>に対する批判は展開しつつも、「広域処理」を意志統一したいという記事である。そしてこうした見解を基調として、北九州、大阪、京都などで地方議会における共産党の受け入れ賛成が行なわれた。これも、「復興」ということに多数意見が集約されているという立場から、放射性物質は<拡散>を防ぐのが原則だという事に対する、重大な無原則がおこなわれたことを意味するものである。つまりこの場合、「多数」というのは、賛成か反対か、どちらが票に結び付くかということであり、ここでは「復興=ガレキ受入れ」に賛成した方が集票につながると判断したのではないか。

民医連などの被ばくに直接関係する分野は別として、反被ばくの広大な戦線は、比較的にこの党派からは独立した諸運動・諸個人が展開してゆくことになる。

 

●「差別撤廃・東京大行進」問題

 

ここで、次のような大衆運動上の問題もとりあげておこう。

2013年9・22、主催者発表で3000人もの人たちが、「差別撤廃・東京大行進」といわれるデモをおこなった。私は関西におり、この運動には関与していないが、東京大行進問題では、「しばき隊」などの主催者の側と、主催者とは違う主張で参加しようとした「ヘイトスピーチに反対する会」との間の矛盾が存在した。それは、在特会などのへイトスピーチをやっているレイシストたちを、どのようなものとして規定し、これらと、いかに闘うかという問題をめぐるものとしてあった。

 本論著者としては、どちらにも、知人・友人がおり、あまり、この問題はやりたくなかったのだが、理論問題という枠組みで、少々論じてみることにする。ご批判は歓迎する。

 日本共産党が一つの影響力をもっている主催者の大方の人々の最大公約数的な見解となっていたものは、「そこにあるレイシストによる差別を止めろ」という心情であり、差別するのではなく「仲良くしようぜ」として、その一点で、とにかく、そういうことで団結できる者ならば、どんな人たちとでも繋がり、一人でも多くの人たちがデモに参加することをめざすということを共通認識にしたものであったと、分析できる。可能な限り、多数を集めることにベクトルの方向がある。そして、そのポイントは、在特会・レイシストという個別勢力だけを批判対象にするということだ。あるいは、もっと一般的で・抽象的な「差別撤廃」というスローガンを掲げた運動だったということだ。これを①としよう。

(「新右翼」が主催者に入っていた問題は、ここでは省略する。運動の形態内容のみを、ここでの課題とするものである)。

 これに対し、「ヘイトスピーチに反対する会」の人々の考えは、そもそも、レイシストのヘイトスピーチが生産されている土壌は、どこかと問い、それは、現代の日本社会自体がもつ差別構造であって、社会全般にある差別・排外主義を問題にしてゆく必要があるとし、例えば、朝鮮高校の高等学校無償化からの排除を例として挙げ、そうした政府の排外主義政策と、レイシストたちのヘイトスピーチは通底しているとし、そうしたこと総体を打つ視点を提起しているものであると、分析できる。帝国主義を批判する見解を大衆運動に提起することにベクトルの方向がある。そして、そのポイントは、具体的に社会ステムを批判対象にするということだ。これを②としよう。

 (A)それ自体としてみるならば、そのどちらかが間違っており・どちらかが正しいというものではない。このどちらもが、いろいろな運動のいろいろに変化する獲得目標によって、いろいろな選択肢が選択されるなかの一つというものでしかない。

だが、一方の選択肢を実現するために、それが、他の選択肢を選択した人々を極端に排除することで、対立する<形>をつくろうとするならば、話は、別の問題になるだろう。

 この場合、出来るだけ多くの多数者をえようとする①は、「仲良くしようぜ」に象徴されるような幅広路線をとっており、その点、排外主義を生み出す日本の社会的システムの問題は、後景化する。例えば、こうした位置づけでの反レイシズム運動からは、その排外主義の社会システムの一つである天皇制の問題は後景化されることを意味する。天皇問題の後景化は、天皇制の戦争・戦後責任を頂点とした日帝本国人自身の問題、つまり日本帝国主義抑圧民族の自己批判としての、レイシスト・ファシストとの闘いという課題の後景化を意味するだろう。

そのことは同時に、今日の日本帝国主義への批判ではなく、排外主義に対する公共性として、現代における、共通了解であると思念されているところの「民主主義(秩序)を守れ」という価値観が前面に登場することをそれは意味しているだろう。つまり、反レイシズム運動は民主主義秩序派運動にすぎないものになる。換言すれば、帝国主義秩序の共同幻想である民主主義秩序に反する排外主義反対という、秩序派の運動にすぎないものとなる。共同幻想(国家――帝国主義の公的暴力を隠ぺい・正当化するための。帝国主義の暴力は問わないのだから共同幻想そのものだ)でレイシスト勢力を批判していることになるわけである。

B)他方で、②の場合、運動は①よりも、社会的な浸透性の幅、広がりは難しくなり、運動の規模は、縮小する傾向となるとの分析がなりたつ。このように仮定すれば、①と②は180度対立するベクトルを描くことになるだろう。したがって、そうした中で、①の選択をした人たちが、②によって、運動が広がらなくなることを、思いえがくのは十分予想できる。実際、当日、②の人々が、集会場となった公園の中の集会場とは違う部分で②の考え方によるビラまき情宣をおこなっていた最中、主催者が、「情宣はやめてくれ」として、情宣妨害をしてきた映像がYoutubeにアップされていたものを私自身が見ている。

 また、この東京大行進の後の主催者の会議で、今後主催者がおこなう集会デモに「ヘイトスピーチに反対する会」の排除が決議されている。

 大衆運動において方針をめぐって論争があるという事態は、あたりまえにあることであり、また、誤解を恐れずに言うならば、論争があることは、それが、民主的に堂々とおこなわれる以上は、健全なことでさえあるだろう。当日、ヘイトスピーチに反対する会は、反民主的なことはなにもしていないというのが、私の認識である。ただ情宣をしていただけである。であるにもかかわらず、排除を決議するまでに<対立の形>を作るというのは、何か、大衆運動以外の政治主義・セクト主義的な意図が働いているのではないかという不安を私個人としては、禁じ得ない。

 (C)大行進を作った人々には、悪い言い方にしかならないが、簡単に言えば、この問題は多数をえたいため、<動員機能>にこだわる民主主義秩序派が、<帝国主義批判>派の一グループを排除したと、総括できるだろう。

(この問題は1930年代における「人民戦線」戦術をめぐる論争と通底しているが、紙数の関係上省略する)

 

●細川支持は武装解除だ――東京都知事選挙

 

最後に、都知事選での問題をアウトラインと本論著者が考えていることをポイントだけおさえておくことにする。

今回の都知事選では自民党が推した舛添候補が当選した。舛添は、「連合東京」からも「支持」を取り付けた。連合古賀会長は電機労連の、連合東京の大野会長は東電労組の出身である。この「支持」決定は会長決定であり、各労組は、この決定に縛られるものではないという条件付きのものであるが、この決定は原発再稼動と直結していることは明白だ。原子力村の意志を受けた連合東京中央の「支持」決定だといえるだろう。舛添の反原発候補に対する布陣の一つにほかならなかった。まさに、「原発は争点にならなかった」などといわれているが、水面下では絶対に反原発候補に負けられない選挙として、原子力村あげての舛添選挙が展開されていたことは、容易に想像できるだろう。東京都は東電の株主だ。反原発都知事は東電の行方に影響を与える直接的なモメントをもっているのである。これに対して、如何に闘うか、反原発選挙の内容性が問われていた。

細川陣営はどうか。「郵政民営化」など新自由主義を領導し、イラク戦争出兵の責任者であったのが小泉純一郎である。その小泉と細川の「反原発タッグ」こそ、都知事選「細川選挙」の前提にあるものだ。一般には、それは「小泉が改心したからだ」とか、いろいろな「情報」がとびかったが、それは、改心でもなんでもない。3・11原発事故の前まであった、「安全神話」によってブルジョアジーは、「原発は安全。原発は資本設備であり、価値を生む」とし、原発利権を作り上げていた。これに対し、3・11以後は、ブルジョアジーのなかにも、反原発派としてのエネルギー事業(政策)転換派が形成されてきたという事以外ではない。それは、原発をめぐる政治内容の転換というよりは、エネルギー事業の商業政策・経営内容の転換であり、新たなエネルギー利権の形成を模索する動きといえるだろう。

後述するように今回の都知事選では、そういう階級的背景を不問にし、細川を支持した左翼・リベラルもいたということになる。

そもそも、「細川」たちがいう原発廃炉実現のための<資源>はどこにあるのだろうか。それは政治力学的な利害の駆け引きを前提とした、利害調整―利益誘導での、原子力村との駆け引きで、エネルギー転換政策を実現するということでしかない。そこでは、利害調整の中で妥当な線での決着が図られる。つまりそれは、どこまでいっても、原発問題をエネルギー選択の問題の前提の上で政治的アプローチがとられてゆくという事になる以外なく、原発問題をエネルギー問題ではない、人権問題として、生態系破壊の事故事件としてとらえ、損得抜きでの廃炉への転換を行ってゆくということには、なりようもないということなのである。

あくまでも事業継続しようとする原発ブルジョアジーに対して、これとは利害対立するブルジョア権力者たちと手を組むことで、反原発闘争の原則を、そして、反原発闘争の階級闘争としての推進を解体しているのである。

 

●プロレタリア派的課題

 

その場合、反原発運動の階級的(プロレタリア派=反資本主義派的)推進とは何かという事だ。それは核武装の副産物としての原発を、核武装もろとも廃絶するということであり、福島事故で展開されてきたあらゆる分野での被ばくに対する「予防原則」の徹底化を基本とした対策を実践してゆく(ゼロベクレル運動)。被爆労働問題の深化と避難の権利の徹底化。そのことをつうじて、放射能汚染の責任者である帝国主義権力に対する生活者の自治的・文化的関係性を形成してゆく。放射能汚染地帯―――その一つである関東平野の相対化――移住を希望する有志の移住の促進。同時に、「汚染者負担(責任)の原則」に準拠して、東電・電力資本と政府の加害責任者を法廷に引きずりだし、その加害者責任を徹底的に追及する、そして原子力村の徹底解体という事、等々だ。そうしたことのためには大衆運動、民衆の力の強化が中心となるのであり、そこでは後述するように、ブジョアジーの代表者にお願いするというスタンスは一切、否定されるべきなのである。

まさに チェルノブイリとフクシマを経た今日、原発があること自体が、核事故そのものについての<未必の故意>以外の何ものでもないということが、全人民的にゆるぎない認識として広がっている。「不安」や「怒り」を土台として、その広がりを、「お願い」ではなく、鮮明に<抵抗権>に基づく大衆運動として位置づけてゆく必要がある。

 ※未必の故意……行為者が罪となる事実の発生を積極的に意図・希望したわけではないが、自己の行為からあらゆる事実が発生するかもしれないと思いながら、発生しても仕方がないと認めて、行為する心理状態(広辞苑)。

 

●<有効性の論理>

 

このプロレタリア派的立場から見た場合、ブルジョア反原発派の「細川知事」は、民主党・鳩山の「普天間迷走」→米軍基地・抑止力論の再確認と同じにならざるをえないような、決定的な限界をもっている。そのことは、まさに小泉の出したカードが「専門家が知恵を出し合う」というものでしかなかったことに象徴的である。まさにそうした、なんでもありのなんでもなしのようなものでしかない。

 結局は自民党の河野太郎が言っているような、大衆運動・デモをやっても、日米原子力協定がある限り原発は廃止できない、地域の議員の事務所に行って宣伝してください、脱原発の議員を一人でも多く作りましょうという、議会主義的なお願い運動に、反原発運動を回収・取り込もうとするものにほかならない。だがそれは、エネルギー問題・政策問題への反原発運動の歪曲であり、体制内化・秩序派化にほかならない。

だがそういうことの最たるものが、都知事選挙での、反原発・脱原発の市民運動の「細川支持」表明にほかならなかった。

 今この支持リストを見てみると、Yさんや、Fさんといった、筋金入りの活動家もおられる。しかし、これが、「細川――小泉」というネームバリューを軸としての、「勝つために勝つ人を」という<有効性の論理>からのみ選択されたものであること、そして先述したように、これまでは、原発の安全神話の下で分裂しなかった、ブルジョアジーが、福島原発事故以降、賛成・反対で分裂していることに乗っかった、<政治力学主義>にすぎないことはあきらかだ。それによって、起こるのは、原則的左翼・リベラル反体制運動における、ブルジョアジーに対する<階級的な・反体制的な立場性の解体>にほかならない。

 「自民党」に対する比較的ましな「第二自民党」へのとりこみ、ということだろう。

 シングルイシュにおける階級闘争の自己解体があるだけだ。

そこで確認すべき、決定的なポイントは「選挙民」には、そこでは、階級闘争の延長としての議会選挙・反原発選挙というスタンスを可視化できないということなのである。それは革命的議会主義ではない。

 だが、事態は、「反原発候補者の一本化」問題にまで展開してしまった。細川候補と宇都宮候補の二人に反原発の票は割れるから、どちらも当選できない。一本化して反原発都知事の誕生を、という考え方だ。しかし、ブルジョアジーの反原発派と社共の反原発派など、そもそも政治的ヘゲモニーの在り様が違うわけである。又それは社共とブルジョアジーの協商をしか意味しない。

 ここで、そういうのは、単に階級対立があるということではない。まず一本化で、宇都宮候補が断念し、細川候補に一本化した場合、先にのべたように、その「反原発」は、エネルギー政策転換を基本にした勢力のヘゲモニーによってすすめられ、多少ともあった宇都宮候補の人権問題としての反原発は後景化されてゆく。もちろん「再稼動反対」すらもが、あいまいになってゆくかもしれない。さらに、「汚染者負担の原則」などで責任者を裁くなどは論外という事になってゆく以外ないだろう。

 

●問われているのは反体制運動の立場である

 

宇都宮氏も含めて、本当に被ばくのことを考えているのかが問われる。宇都宮氏は東京五輪をやるとか言っていた。全くナンセンスだというしかない。これはニュアンスとして言うのだが、日本が社会主義であれば、今頃は、福島事故原発起因の放射性物質によって極度に汚染された関東平野は、一端、人民解放軍の管理下におかれ、いわゆる一般市民はそこでは生活できないことになっていると、私の社会主義観(社会主義下での原発をふくめ、一切の原発に私は反対だが、事故対策に関する考え方としていうならば、ということ)からはいうしかない。徹底的な調査と除染の方法が研究されているはずだ。そういうことだから、東京オリンピックなどはもってのほかなのである。

東京オリンピックは人民を関東平野に縛り付けるという事以外ではないからだ。

また反体制運動としては、そもそも召集令状への違和感・批判をなくそうとすることに結び付く裁判員制度に賛成の宇都宮氏は、反体制運動を代表することにはならないだろう。

都知事選後、東京・渋谷で、細川候補・宇都宮候補に分かれていた人々による「仲直り」「出直し」デモがおこなわれ、多くの人々が集まったという。倫理的に言っていいことだと思うが、ゼロベクレル派・プロレタリア派にとっての問題は、これまで述べてきたような両候補の政治内容上の総括に関する問題にほかならない。

 

●ゼロベクレル派・プロレタリア派の課題的枠組みが求められている

 

総じて、天皇制問題、ガレキ問題、「差別撤廃・東京大行進」問題、都知事選問題、すべて、多数派形成を自己目的とし、実体化する考え方は、ラジカルな闘争課題の設定や運動の原則とされているものそれ自身を否定ないしは後景化し、ラジカルな階級闘争としての大衆運動の論理を解体することとして作用している。そんなことで本当に、放射能汚染の責任者である帝国主義権力に対し抵抗権をつきつけていけるのだろうか。

まさにラジカルな反資本主義としての反原発運動という問題意識の後景化が起こっている。だが、そうだからこそ、よく言われるような戦術急進主義的な行動左翼主義ではなく、政治内容としてのラジカルなゼロベクレル派・プロレタリア派の課題的枠組みの誰の目にも明らかな公然化が求められている。

昨年(2013年)7月の参議院選挙で「経済成長主義反対」を掲げた「緑の党」や、今回の都知事選で反原発――「被爆させない」・東京オリンピック反対・反貧困、新自由主義ではない社会を、そのためには労働運動の再建がカギだとアピールした鈴木達夫さんの挑戦(1万票以上を獲得した)などが展開されている。そうした一つ一つの実践に主体的に学びながら、単なる戦術急進主義的左派ではないところの、反原発運動におけるラジカルな課題を前面に押し出したプロレタリア派運動の登場がもとめられているのではないか。(2014・2・27)

(注:本論では、2013年の参議院選挙での山本太郎などの反原発候補の集票傾向と、今回の都知事選での反原発候補の集票傾向の比較などは、とくに行わなかった)