2013年12月4日水曜日

秘密法の特質――「戦後」破防法体制から「戦時」秘密法体制へ(第二回)


秘密法の特質

――「戦後」破防法体制から「戦時」秘密法体制へ(第二回)
                                                 
                                                                                                   渋谷要
    


特定秘密保護法(以下、秘密法とする)の近代日本法制史上の大きな特質は、過去の治安法との比較などをふまえて分析されねばならないが、それは、次回以降の課題として、今回は同法の特徴点につき概観する。

「特定秘密」なるものをそれと知っていて「特定秘密を管理する」担当者などが、安全保障に損害を与える利敵行為として情報を外部に流すことを裁くということに、「立法者意思」の主張がある。それ自体、例えば憲法違反の密約がおこなわれた場合――日米安保軍の「集団的自衛権」の行使であった場合など、それを暴露することも、罰せられる、軍国主義的なものにほかならないが、それのみではなく、この法案の文面は、広く人権抑圧・治安弾圧立法としての特徴を多分にしめしてあまりあるものだ。

一番の問題は例えば、ある人が、ある事項について知りたいと思って、その筋の所轄官庁の官僚に聞いたところ、それが、たまたま、「特定秘密」と関連があった場合、それはその人が、「特定秘密」関連情報だとは知りようもなかったわけだが、その特定秘密情報の管理を害する行為であるとされ、また、その漏えいを煽動・教唆したなどとされ、罰せられることがある(国家権力は罰することが可能となる)、ということだ。

また、秘密情報となっていた情報を、あるいはその情報と密接な情報について、それとは知らないで論じたものも、秘密情報漏えいまたは、漏えいの煽動・教唆などとして、国家権力が罰する可能性がある。

しかし、これらの件での逮捕においては、「秘密事項」が何の漏えいであるかは、「秘密」なのだから隠され、ただ、例えば「安全保障」に関わる特定秘密の漏えいとするだけで、逮捕から裁判の全過程が進行する。まさに、暗黒裁判・軍事裁判そのものだ。

なぜなら、これでは、どのような「行為」が、どのように違法なのか、具体的に何を取ったから、取ろうとしたから違法なのか、 それは、どれくらい違法なのか、違法でないのかを、争うことはできず、一般におこなわれている刑事公判にのっとった裁判なら、公判を維持することは、絶対に不可能なものなのである。ものすごい人権侵害だ。これこそ「国家テロリズム」だ。

またこうも想定できる。その秘密が例えば、権力犯罪の隠ぺいにかかわる、あるいは関与していくようなものであった場合、権力犯罪は伏せられているということになる。

まさに、この「秘密」の規定では、罪刑法定主義にもとづいて、「行為」を裁くことを原則としている近代民主主義裁判制度の根幹を否定し、国家権力が、秘密法違反をいか様にもでっち上げられる、そして、犯人にしたい者を、恣意的にでっち上げ、犯人にできる、刑事弾圧のオールマイティーを持つことができるのである。




(1)「行政機関の長」(政府・官僚)による「特定秘密」の恣意的な指定。何を「秘密」の根拠にするのかも、不明である。公開原則も秘密指定の年限を延長できるしくみになっている(第4条)。「秘密」の内容を評価する第三者機関もない(官僚主導、体制翼賛の「第三者機関」などは、欺瞞以外ではない)。
(2)国会議員も「特定秘密」を知ることができない。(国権最高機関としての立法府の破壊だ――この問題は、このシリーズでは、折を見て行う)。

(3)「特定秘密」を洩らした人にも、情報を求めた側にも罰則。「共謀」「教唆」「煽動」としても罰せられる。

(4)量刑は最高十年。

(5)第五章の「適正評価」として、この「秘密」をあつかう官僚などの個人情報やその家族などの国籍などの情報も調査される。

(6)「するための活動」とは、何だ?

「適正評価」には、評価の対象となる人々に「次に掲げる事項についての調査を行い、その結果に基づき実施するものとする」として、「薬物」「精神疾患」「飲酒」などのほか、次のようなことを調査せよと書いている。

以下、ここに書かれている「特定有害活動」「テロリズム」の定義は不明確で、拡大解釈の可能性大。とくに「行為」が限定されていない。個々の問題点を、<>に囲んで、指摘する。

「特定有害活動(公になっていない情報のうちその漏えいが国の安全保障に支障を与える<おそれ>があるものを取得するための活動、核兵器、軍用の化学製剤若しくは細菌製剤もしくはこれらの散布のための装置若しくはこれらを運搬することができるロケット若しくは無人航空機またはこれらの開発、製造、使用若しくは貯蔵のために用いられる<おそれ>が特に大きいと認められる物を輸出し、又は輸入するための活動<その他>の活動であって、外国の利益を図る目的で行われ、かつ、我が国及び国民の安全を著しく害し、又は害する<おそれ>のあるものをいう。及びテロリズム(政治上<その他>の主義主張に基づき、国家もしくは他人にこれを<強要>し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で、人を殺傷し、又は重要な施設<その他>のものを破壊<するための>活動を言う。)」そしてこれらに「関する事項」での「調査対象者」のチェックが必要だと規定している。

<おそれ>というのは、何が <おそれ=危殆>なのかは、調査する側の恣意で、どこまでも拡大解釈できる。<その他>は、恣意的拡大解釈に際限なく道をひらいている。<強要>というのは、「主張する」行為が、人によってそう受け取ることが可能であり、「主張する」行為を<強要>したとでっち上げることが可能である。<破壊するための活動>というのは「破壊する」という行為以外にも、その「行為」を準備する一連の行為が想定されるので、どこまでが「ための」に入るのかは、調査する側の恣意的な判断なしには成り立たない。

(7)「その他」で未遂罪が成立

第7章の「罰則」では、「人を欺き、人に暴行を加え、若しくは人を脅迫する行為により、又は財物の窃取もしくは損壊、施設への侵入、有線電気通信の傍受、不正アクセス行為(不正アクセスの禁止等に関する法律(平成十一年法律第百二十八号)第二条第四項に規定する不正アクセス行為を言う。)<その他>の特定秘密を保有する者の管理を害する行為により、特定秘密を取得した者は、十年以下の懲役に処し、又は情状により十年以下の懲役及び千万円以下の罰金に処する」としている。そしてこの第二項として「前項の罪の未遂は、罰する」と規定している。

まさにこの場合、「その他」とは、恣意的拡大解釈以外ではないだろう。まさに、「特定秘密を保有する者の管理を害する行為」だとして「その他」を理由に、その未遂罪ででっち上げあげられる可能性がある。

こういう、国家権力の恣意的な拡大解釈の範囲が、無限に広がっているのが、治安法の特徴だ。日帝は、こうした治安法を、日米安保成立の三か月後に成立させた戦後破防法体制の土台の上に、積み上げるように、構築しようとしている。それが「戦時」秘密法体制だ。

2013年11月29日金曜日

廣松渉の「食糧独裁令」に対する見解――徴発に対し否定的――


哲学者廣松渉(1933~1994年。東京大学名誉教授。『存在と意味』(岩波書店)など)『マルクスと歴史の現実』(平凡社)ではつぎのように論じられています。

一九一八年、内戦のさなか「ロシアでは、五、六、七の月三ヶ月間は端境期にあたり、穀物が市場にほとんど出荷しません。土地革命で小規模自作農化した農民たちは、戦争と革命で商品経済が低迷し、穀物を売っても買う品物がない状態になっていたこともあり、穀物を売りに出そうとはしません。講和条約の締結がもたついていた間にウクライナその他の穀倉地帯がドイツ軍に占領された関係もあって、都市での食糧危機は深刻です。政府としては、とりわけ中央農業地帯とヴォルガ河流域から穀物を調達するしかありません。ところが、この両地域は農民革命の主舞台となった地帯でもあり、エスエル(社会革命党―引用者)の拠点でもありました。左翼エスエルは穀物調達の地方分権化や公定価格の引き上げによる解決策を提議しました。しかし、政府は『貧農委員会』の組織化、『穀物の貯えをかくす農村ブルジョアジーとの闘争』を指令し、『食糧徴発隊』を中央から大挙農村へと派遣してことに当たらせました。いわゆる『食糧独裁令』の施行です。左翼エスエルは『勤労者共和国の基礎をなす二つの勢力、すなわち勤労農民とプロレタリアートが相互にけしかけられる危険』を警告して断固反対しました。現に、食糧徴発隊と現地農民との武力衝突、農民叛乱が各地で起こりました」(二二一~二二二頁)。

こうした<強権の行使>を「階級闘争」と称して展開するあり方はスターリン主義国家形成における、その経験的な土台をなすものにほかならなかったのです。

2013年11月14日木曜日

日本における原発建設での、機動隊(武装警察隊)の暴力を忘れるな!

今の、一切の原発事故に関する現実に対して、はっきりと言わなければならないと、僕が思っていること。すべての事に対して怒りを禁じられない。1970年代以降、原発の建設には、機動隊の暴力がどれだけ使用されたか。原発開発の「公聴会」でも、どれだけの機動隊の動員と挑発的逮捕がおこなわれたか。この実体を歴史的に客観的に、明らかに復元しないといけないとおもっています。絶対にわすれるな!

 「おとな」が、平和裏に原発に賛成したというのは、ある面では正しいが、、ある面では間違っている。国家暴力で原発が建設されていったことを隠蔽する言説となっている。そして、このことと、山本太郎氏への「右翼テロ」」挑発は、つながっている。「原子力国家打倒!」「機動隊国家打倒!」。

2013年10月27日日曜日

左翼エスエルから見たロシア農耕共同体問題の全体像


左翼エスエルから見たロシア農耕共同体問題の全体像

★長文になりますが、ここで左翼エスエル指導部の一人でボリシェビキとの連合政府=人民委員会議の司法人民委員だったI.スタインベルク(第二次大戦後まで生き残った)『左翼社会革命党1917――1921』(鹿砦社)「第19章 ロシアの農民」より、ロシア農業農民共同体問題のポイントとなると考えられるものを引用します。
 

①などの〇番号と見出しは引用者でつけたものです。

①ロシア農耕共同体
「ロシアの農民は、オプシチーナあるいはミールと呼ばれるその土地共同体の根深い諸伝統を革命にもちこんだ。農民人口の5分の4までが、オプシチーナの構成下にある土地で、その諸原理に従って働いていたのである。この制度の主要な原理とは何であったのか? 第1は、土地の共同所有権、第2は土地に対する全農民の権利。第3はオプシチーナにおける共同体的管理運営。(中略)農奴であった時ですらも、農民たちは確信に満ちてこう言うのであった。「わしらは御領主様の物だ、けど土地はわしらのものさ」と。
 彼らはオプシチーナに所属しており、そのことは、一種の直接民主制である農民スホード即ち、村の寄合であらゆる決定がなされることを意味していた。オプシチーナは、その成員の間での種種の土地の配分を決定した。どの農民も自分と自分の家族が耕作するだけの一片の土地への権利を有していた。この意味において権利の平等は広く行きわたっていたのである。新たな世代のためではなく、すべての者にこの権利が保証されることを確保するために、定期的な土地の割替が行われた。そしてこの習慣が、土地は「わしのもの」ではなく、皆のものだ、といった農民の信念を増大させたのである。かくしてこの土地に対する権利というものが、農民経済が、ただ、「売却、購入、そして相続」に立脚しているにすぎない国々とは異なった社会的倫理的風土と社会的諸関係の体系とを創りあげたのであった。
 
 なるほど、オプシチーナは、ツアーリ政府とその徴税政策の重圧のもとに置かれてはきた。だが上からの圧迫は、その内的な様式を変化させることができなかった。1906年、ツアーリの大臣ストルイピンは、農民にそのオプシチーナより離脱する「自由」ならびにひとつかみの土地の私的所有者となることを認める有名な仕事を布告した。その目的とするところは、新たな何百万という小ブルジョア的農民階級を創り出すことによって、くすぶりつつある革命の焔を消しとめることにあった。しかしながら、この機会に乗じてオプシチーナを破壊しようとした者はほとんどなく、しかも1917年に革命が勃発すると直ちに、多くの者が自発的にそこへ帰っていったのであった。
 

 これこそ、ロシアの農民たちが偉大な動乱に対して献げた共同体的生活経験という社会的精神的資産だったのである。それは農村だけに行きわたっていたのではなく、ロシアで一般的であった協同組合運動の中にも見うけられた。ロシアの職人たちもまた、その多数が都市の工業労働者となる以前は、アルテリという労働組合に広範に組織されていたのである。良きに突け悪しきにつけあらゆる機会に、彼らは、農村におけるオプシチーナの都市版であるアルテリの原理へ引きつけられたのであった」。
 

②土地社会化法の成立(19181月)
「ロシア農業革命の先触れとなった土地社会化法についてさらに注意深く検討してみよう。この法令は、はやくも19175月、ペトログラードにおける第1回農大会でその大要が定められていたのであった。(中略)この作業は、第3回農民大会が(ペトログラードにおいて)初めて第3回労働者兵士ソビエト大会と合同で開催されていた19181月に完了した(この大会で採択された引用者)。900名のプロレタリアートの、そして600名の農民の代表が、ロシア勤労人民の統一を、《レーニンとスピリドーノワの握手》に象徴される統一をうちたてたのである」。(注:マリア・スピリドーノワ。左翼エスエル最高指導者。1917年10月革命以降の農民ソビエトの議長。スターリンにより1941年9・11メドヴェージェフスキーの森で銃殺刑。享年56歳――引用者)
 

「彼らの最終的な条文は以下のようなものとなった。『土地、鉱石、水、森林もしくは他の天然資源に関する種種の所有権(国家的所有もふくめて!)はロシア・ソビエト連邦共和国の領土において永久に廃止される。』
この冒頭の宣言に、全ロシアを新たなる土台の上に組み立て、土地総割替(チェールヌイ・ペレジェール)即ち全面的土地再分割という農民の長年の夢を実現した一群の条項が続いた。引用されているのは第2,3,4条である。『土地は、無賠償で全勤労者の使用に供せられることになる』『土地の使用権は、自らの手で労働するもの(つまり、賃労働を雇用しないもの)にのみ属するものである』『この土地の使用権は、性別、宗教、国境もしくは市民権を理由として制限されてはならない』(中略)「ゼムリャー・イ・ヴォーリャ(土地と自由)というスローガンは、もはや一国的性格を脱して、世界性を獲得せんと渇望していた」。

(●●●引用者・KANAMEの注;  但し、「模範農場」の規定にはソビエトが農場を「《国家》により支払われる労働で耕作する」規定、「《労働者統制》の一般的基準に従う」規定の両規定が併記されている(前者規定=ボルシェビキ、後者規定=左翼エスエル)ことに見られるように両者で論争がおこなわれたことが反映されている)

③農民革命(191719185月)
「『実際に生じつつあった事態とは、村民による仲間うちでの土地の割替ということだったのだ。小地主や富農は、その土地の大部分を多くの子供をかかえた家族へ譲り渡し、不平を一言ももらさずに自ら滅びつつあった。一週間後には全員が耕作のために畑へと戻り、こうして再分割は完了したのである。』(著者スタインベルクによる、1923年の内にユーゴスラビアで刊行された雑誌『ルースカヤ・ムイスリ(ロシアの思想)』でのレポートからの引用引用者)
 

(中略)こうして19184月に、ロシアの農民たち土地所有者たちはその所有地を社会的精神的解放のための共同資金へと投げ出したのである。当時の彼らの支払った犠牲というものは、もう一つの事実これも劣らず重要なことではあったがすなわちロシアにおける封建的地主制の崩壊よりも、なお重いものだった。
(原注)『1917―1918年の期間に、共同体(コミューン)によって再分割のために没収された土地の総面積は農民からのものが約7000デシャチーナ(18900万エーカー)そして大土地所有者からのものが約4200デシャチーナ(11400万エーカー)と見積もられていた。大領地からのよりも、農民の所有地からより多くの土地が取り上げられ(貯えられた)(プール)のである。(以下略)』(著者スタインベルクのディヴィット・ミットラー『農民対マルクス』よりの引用文引用者)」。
 

④―A レーニンの食糧独裁令(1918年5・13)
1918年の春、ブレスト=リトフスク講和条約締結直後のことであった(左翼エスエルは講和反対で人民委員会議(政府)から脱退。ソビエトには議員が存在する引用者)。我々は、このいわゆる講和がロシアに、とりわけ都市部に深刻な衝撃を与えたことをすでに知っている。それは、新たな困窮、飢え、政治不安をもたらしたのであった。ドイツ人は食糧生産地域の広大な部分を占領し、中央ロシアをその供給源から切断していた。政府は、力づくで農民からパンを挑発することを決定した。

 ボリシェビキはこれ以上ひどい災厄を呼び寄せることはできなかったであろう。農村は、その精神的熱狂の再高揚期を通り過ぎたばかりであった。農村は自己を地主のくびきから解き放っただけではなく、その日常生活における経済的・社会的平等化への基礎をも築いたのであった。(中略)人民にとって必要不可欠な商品の生産者である農民が、都市の工業労働者との友情の絆をすぐにも創りあげるのは、当然のことと思われていた。その時になって突然、ボリシェビキ国家は、彼らに対して何か階級闘争の如きものをしかけたのだった(5月食糧独裁令のこと引用者)。

 農村そのものにおいて、ボリシェビキ再びその旧式の理論(カウツキーに影響された「小ブル=農民層の資本家と労働者への階級分化・両極分解」の教条的な理論引用者・KANAME)へと後退したは、勤労農民に、《小ブルジョア》、商売気や私的取引や本来的貪欲さにかぶれた人間という烙印を押しつけた。彼らはほんの少し残っていた《貧民》を圧倒的な農民大衆に敵対させるために組織した、つまり彼らは《貧農》のソビエトを設立したのである。こうして彼らは、自らの手で新たな革命的農村の基礎を破壊することに着手した。

  けれども、それでさえも十分ではなかったのだ。彼らは何千人という特別に組織された工業労働者を《パンの徴発》のために農村へと送り込んだ。本書の他の章、とくに「ボルシェビキ・テロル発動す」は、これらの部隊これは抵抗する農民たちに対する懲罰遠征隊にしばしば早変わりしたのだががいかにそのプロレタリア的参加者を堕落させ、信じ難い残虐行為へと導いたかを詳述している」。

④―B スターリンの農業集団化(1929年~)へ
「都市への一層迅速なパンの供給を保証するために、政府は農村における経済組織の新制度を布告した。コルホーズ(集団開拓地)およびソフホーズ(国営農場)である。ソフホーズは《実際にはパン製造工場》とでもいうべきものであった。


 即ちそれは、巨大な土地を中央集権化された擬似産業体に転換したものであり、そこでは農民は賃労働者として働くこととなっていたのである。
コルホーズは、共産主義的精神で共同の農業単位を確立するためのものと主張された。けれどもそうした精神は、かつて土地革命を鼓吹したオプシチーナ精神とは天と地ほどにも異なっていた。それは農民の自由な決定と国家の強制との間の差異であり、農民たちの中から生まれた共同性と上から押しつけられた統計学的官僚主義的平準化との差異であったのである。
 ボルシェビキ的な農業形態の中では、ロシア農民の固有な伝統は、もはやいかなる役割をも果たさなかった。今よりのち、農民は(その軍務に加えるに)都市にパンや他の原料を供給するための物理的経済的道具という存在にすぎなくなったのだった。旧きマルクス主義的処方箋が、今や武装せる国家権力の援助の下に、至る所において勝利を収めていた」。


以上がスタインベルクの分析と主張です。

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●●●スターリンによる農業集団化をめぐって
                                            by  Kaname



 工業化のための農業の集団化政策は、そもそも1920年代におけるトロツキー派経済学者のプレオブラジェンスキーが『新しい経済』(1970年代、現代思潮社から翻訳書が出た)などを書き、そのなかで「社会主義的原始的蓄積」を提起し、社会主義の「労働者国家」における、農耕共同体経済などに影響力を持った(国有工業化に対して独自の)市場的経済調整力の解体、農民層の労働者化と工業化のための農業に対する不等価交換の政策を提唱したことを始まりとしている。当初、スターリンは、これに対し労農同盟の破壊だとしてブハーリンらとともに反対していたが、トロツキーを追放した後、この工業化政策の考えを取り入れた(トロツキー派の工業化路線それ自体を取り入れたわけではない)。手法は「取引税」である。




「取引税」システムは、工業化のための不等価交換、間接税などから形成される。例えば国家の穀物調達組織が農民から買い取ったライ麦価格をその買い取り額の例えば4倍の金額で国営製粉所に売り、それで得た収入を工業化にまわす。この場合、買い取りには低価格が強制されたため、これが実質的に税の機能を果たしていた。


さらに農業の集団化はそれによって生成した過剰人口を工業労働に組織してゆくことになったのであり、それは、ボリシェビキの近代生産力主義・開発独裁としての工業化論においてはまさに、必然的な過程にほかならなかったのである。
 こうした経緯のもとで、スターリンは1930730日、オプシチーナ、ミールを解体する法令を公布した。


宇野弘蔵系列のマルクス経済学者渡辺寛はのべている。

「スターリンが粗暴な両極分解論に拠って、「階級としての富農の絶滅」を命令し、富農の生産手段(土地、生産用具)の集団農場への没収をすすめるにつれて、それは農村住民に恐るべき影響をもたらした。富農とみなされ土地を没収され追放されたもの、およそ550万人の多くはシベリアに追放され」(渡辺『レーニンとスターリン』194P以降)た。「富農と中農を区別することは実際には困難」であり、中農にも追放はおよび、中農は、自分たちの家畜を大量に殺処分して富農ではないということを表明せざるをえなかった。

 「32年にはロシアの農地の7割は集団化され、穀物生産も28年に対して2割以上の増加をみせた」。だがスターリンは、「31年の集団化計画の完了とともに」第一次5カ年計画のなかで、富農とその支持者がコルホーズとソフホーズに紛れ込んでいるから、摘発せよとして、30年代における大テロルの時代、国内粛清の時代を展開していったのである。
 

 ロシア農耕共同体を破壊した近代は、資本主義ではなくてボリシェビキだったのだ。レーニンの「ロシア共同体消滅」論自体は、ここでも、あらためて、検討することになります。

だけど、字だけのものを二つもつづけてしまったので、次は、いくつかの映像を見ることにしましょう?

2013年10月26日土曜日

マルクスのロシア農耕共同体に関する見解


このマルクスの見解は、レーニンの「ロシア農耕共同体解消論」ではなく、ナロードニキの見解とフレンドだ。

共産党宣言 ロシア語第二版序文(全文) (マルクス・エンゲルス全集第19巻から。原書頁295以降)

『共産党宣言』のロシア語初版は、バクーニンの翻訳で、1860年代のはじめに『コロコル』発行所から出版された。当時の西欧の人々には、この本(『宣言』のロシア語版)は、文献上の珍品としか考えられなかった。今では、そういう見方をすることは不可能であろう。

その当時に(184712月)プロレタリア運動がまだどんなに限られた地域にしか及んでいなかったかは、『宣言』の最後の章、さまざまな国のさまざまな反政府諸党にたいする共産主義者の立場という章が、このうえなくはっきりと示している。つまり、そこには、ほかならぬ――ロシアと合衆国が欠けている。それは、ロシアがヨーロッパの全反動の最後の大きな予備軍となっていた時代であり、また合衆国がヨーロッパのプロレタリアートの過剰な力を移民によって吸収していた時代であった。どちらの国も、ヨーロッパに対する原料の供給者であると同時に、ヨーロッパの工業製品の販売市場になっていた。だから、その当時には、どちらの国もなんらかの仕方でヨーロッパの既成秩序の支柱であった。

それがいまではなんという変わりようだろう! まさにこのヨーロッパからの移民の力が北アメリカに、大規模な農業生産を発展させる可能性をあたえた。そして、いまこの農業生産の競争が、ヨーロッパの土地所有を――大小の別なく――根底からゆりうごかしている。そのうえ、この移民のおかげで合衆国は、非常な勢力と規模でその膨大な工業資源を利用することができたので、西ヨーロッパ、とりわけイギリスの従来の工業上の独占は、まもなく打破されるにちがいない。

この二つの事情は、ともにアメリカそのものに革命的な反作用を及ぼしている。全政治制度の土台である農業者の中小の土地所有は、しだいに巨大農場の競争に敗れている。それと同時に、工業地帯では、大量のプロレタリアートとおとぎ話のような資本の集積とが、はじめて発展しつつある。 それでは、ロシアはどうか! 1848―1849年の革命のときには、ヨーロッパの君主たちだけでなく、ヨーロッパのブルジョアもまた、ようやくめざめかけていたプロレタロアートから自分たちを守ってくれる唯一の救いは、ロシアの干渉であると見ていた。ツアーリはヨーロッパの反動派の首領であると、宣言された。

今日では、彼はガッチナ【引用者注:18813月、人民の意志党はアレクサンドル2世を完全打倒(=暗殺)した。これをうけて、アレクサンドル3世はサンクトペテルブルグ(レニングラート)付近にある城・ガッチナに、「人民の意志党」のテロルを避けるため軍隊などの警護をうけて、篭ることになっていた、そのガッチナ】で革命の捕虜になっており、ロシアはヨーロッパの革命的行動の前衛となっている。

『共産党宣言』の課題は、近代のブルジョア的所有の解体が不可避的にせまっていることを宣言することであった。ところが、ロシアでは、資本主義の思惑が急速に開花し、ブルジョア的土地所有がようやく発展しかけているその半面で、土地の大半が農民の共有になっていることが見られる。そこで、次のような問題が生まれる。ロシアの農民共同体(オプシチナ)は、ひどくくずれてはいても、太古の土地共有制の一形態であるが、これから直接に、共産主義的な共同所有という、より高度の形態に移行できるであろうか? それとも反対に、農民共同体は、そのまえに、西欧の歴史的発展でおこなわれたのと同じ解体過程をたどらなければならないのであろうか? この問題にたいして今日あたえることのできるただ一つの答えは、次のとおりである。もし、ロシア革命が西欧のプロレタリア革命にたいする合図となって、両者が互いに補いあうなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となることができる。

ロンドン、1882121日、カール・マルクス、F・エンゲルス

Махно: спор с большевикомロシア内戦期、 ウクライナ・マフノの闘い――ボリシェビキの「プロ独」という名の前衛主義独裁を許すな!



マフノのドラマの一部。

ボリシェビキのオルグが、マフノ解放区に、「プロレタリア独裁」の宣伝にきています。ボリシェビキのオルグは「プロ独」の意義を強調しますが、マフノは、「プロ独っていっても、レーニンやトロツキーのヘゲモニーでなきゃ、だめだっていう、ボリシェビキの独裁だろ」って反論します。

事実、歴史はボリシェビキの前衛の独裁となり、スターリン主義に展開しました。
前衛の独裁(前衛主義)は、1990年を前後する、ソ連東欧圏の崩壊で解体しましたが、「前衛の独裁」ではない、民主主義的な社会主義が、新自由主義の世界秩序にかわって、創造される必要があると、僕は思っています。

ウクライナ・マフノの闘い――ロシア内戦期



僕の認識に間違いなければ、ロシア内戦期のウクライナ・マフノを画いたテレビドラマが、2000年代、ロシアで放送されました。ボリシェビキがどう言おうとも、マフノ革命反乱軍が、デニキン反革命軍を撃破した、1919年9・25、マフノ軍が攻勢に転じた、デニキン軍総殲滅のペレゴノフカ戦闘以降の人民戦争がなければ、12月にはデニキン軍がモスクワに「入城」していた可能性があると、いわれています。


ボリシェビキは、他党派に対する非合法化を、内戦のためといっているが、そんなのは嘘っぱちである! ボリシェビキはこれからここで批判してゆくように「唯一の前衛主義――他党派解体主義」に他ならなかった。レーニンらボリシェビキは「絶対的真理論」者であり、「真理の前衛」は、一つであって、二つ以上は存在しないのだからである。


 マフノ軍は、「非合法化」を避けるため、このとき、自分たちを赤軍の義勇軍部隊に登録して闘っているのです。ボリシェビキだけが内戦を戦ったのでないばかりか、ウクライナではマフノが闘った。この歴史を遠い、日本で隠蔽することはできたとしても、ロシア――ウクライナで隠蔽することはできない。