2017年10月11日水曜日

ブログ管理人よりご愛読の皆様へ

ブログ管理人・渋谷要より。

「赤いエコロジスト」を、ご愛読の皆さま。
ありがとうございます。
いろいろなことを考えることがあり、
原稿本数にして本ブログの約半分にあたる
イデオロギーものを中心とした
発信の仕方を、変えようと思うにいたりました。
一旦、アップした文章を、
閉鎖しますので、
ご理解お願いいたします。

(ただし、時事批評、歴史ものにかぎっては、
ほとんどのものを、
アップしたままにしておきます)
                      敬具

2017年9月6日水曜日

「人間による人間の破壊」としての「放射能汚染」との対決を!


原子力国家による放出責任の隠蔽と民衆に対する被ばく虐殺(棄民政策)を弾劾し、

「人間による人間の破壊」としての「放射能汚染」との対決を!

渋谷要(放射「脳」左翼)



 ●2011年福島原発爆発に起因する放射能の大量放出によって、関東平野において30歳代・40歳代でのガン・白血病での死亡が多発している(注・国家権力や電力資本、放射能安全派や受忍被ばく派は、これを否定している )。東京に暮らし「自分はフクシマ原発事故による放射能放出によってガンとなった」と訴え続けながら、死亡した友人がいる。私はその友人の主張を支持する。


(この死亡した友人の主張については具体的経緯があり、彼は、福島現地から送られてくる東電への賠償申請書類のコピー処理を、この仕事の下請け業者の仕事場で行っていた。その労働により、その書類に付着した福島現地からの放射性物質に汚染された粉塵を、マスクも支給されず、数年間、吸い続けたことによって被ばくしたというのが、上記に示した死んだ彼の主張だ。 彼の死を悼む人たちが、東電に公開質問状も出している。ここでは、文末に資料として紹介する)。



まさに<人間>が放射能によって傷つけられている。それは東電などが喧伝してきた「無主物」なるものがそうしているのではなく、フクシマ事故による放射性物質を放出した日帝国家権力と電力資本に対する責任追及が、ただちに問題になる。まさに<被ばく=人間の破壊>(人間による人間の破壊)という一番重要なことを自覚するべきだ。まさに国家権力と東電、受忍被ばく派の輩どもが2011311以降流布してきた、「風評被害」や「ホットスポット(以外は安全と思わせるもの)」、「医学的リスクはない」など、だから、汚染(が深まっていること)を口にするなという、汚染タブー(禁忌禁制)のディスクール(言説秩序)との闘いを、明確に運動として物質化してゆくべきだ。そして汚染タブーを、「左翼運動」の側からいう、一部左翼内の受忍被ばく派とも、断固として対決するのでなければならない。



●この禁忌禁制は、「戦争責任」と同じ構図だ。戦争経験がタブーとなる。汚染がタブーとなる。そして、タブーを破ったものは、タブーに安住する人々の共同体から排除される。異端、危険分子、秩序破壊者とされる。だが、放射性物質の汚染によって、被ばくした人々は、死んでいる。



●生身の人間が放射線に直接傷つけられている。それは「理想の人間が破壊されている」「理想の人間社会を実現せよ」ということではなく、事故がなければやれるはずだったであろう「個人の人生(のあり方)」が破壊されたということ、このことを重視することが必要だ。こんなことは絶対に許せないし、許すべきではない。そしてそういう人生の規模は、関東平野全域から、さらにはるかに広がっている。放射能汚染に県境も国境もない。

 まさに人々を生きなくさせているのは、原発を国策とし、反対運動に対しては、機動隊の暴力と地元での反対派に対する陰湿な村八分で建設を強行した国家と電力資本だ。

この歴史的現実から、革命的感性をとぎすませて、出発しよう!

 

●多くの被ばく死の責任者、虐殺者=日帝国家と電力資本を弾劾せよ! 

まさにこれは、放出責任に対する階級闘争の問題である。(了)

―――
以下に、<資料>として、上記文中に示した、公開質問状と、それに対する東電からの回答を掲載します。


【大拡散、シェアお願いします】
松平耕一さんの件、東電から『放射能影響は誰にも一切無い』と回答が来ました!許してはならない!
松平耕一さんを追悼し、東電に抗議する集会第3回へ参加を...
9月8日(金・月命日)19時半〜東電本店前
質問内容と、前回報告ですhttps://t.co/HvdlP8jGj6 https://t.co/sfhEQkGaFX

僕は行けないので、今回は在東京の友人有志が中心です。関西はこちらへぜひ。
【拡散、参加を】避難者と住民は東電の再稼働と『悪質避難者』呼ばわりを許さない!連動する暴力にNO!緊急抗議
9月10日(日)12〜13時梅田HEP前
主催 3.11関東からの避難者たち
https://t.co/R5inBrsNPZ
https://t.co/NCNlAWWZct
以下、東電の回答です。
ーーーーーーーーーーーー
松平耕一さんの友人・知人有志 園 良太 さま
東京電力ホールディングス株式会社

 当社福島第一原子力発電所における事故、および放射性物質の漏えいにより、立地地域の皆さま、さらには広く社会の皆さまに大変なご迷惑とご心配をおかけしておりますことを、お詫び申し上げます。
 2017年8月18日にいただきました質問について、以下の通りご回答させていただきます。

1:私たちは福島原発事故由来の空気や食品からの内部被曝が、松平さんの末期大腸がんを発病させたと考える。責任は東電にあると考える。それを東電はどう考えるか答えよ。
(回答)
 国連科学委員会(UNSCEAR)から2014年4月2日にリリースされた報告書「2011年東日本大震災後の原子力事故による放射線被ばくのレベルとその影響」では、福島原発事故の結果として生じた放射線被ばくにより、今後がんや遺伝性疾患の発生率に識別できるような変化はなく、出生時異常の増加もないと予測しています。
 さらに、その後に入手した知見を含めた最新のレビュー報告書(2016年白書)においても、健康影響に関する項目の報告内容は現在も有効とされております。

2:賠償書類の処理労働の実態を全公開せよ。当時の作業室内の放射線量を明らかにせよ。職員への危険周知や対策をなぜ行わなかったか。なぜ業務内容の過剰な口止めをしたかを明らかにせよ。その責任をどう考えるか、現在この労働がどう行われているかを回答せよ。
(回答)
社内管理に関する内容については、回答を差し控えさせていただきますが、当社といたしましては、労働基準法や関係法令等に基づき、適切に対応させていただいております。

3:福島の小児甲状腺癌を始め、健康被害は増幅している。要求した全ての被害者に治療費を払え。国は放射能安全キャンペーンを張っている。これを東電がやめさせよ。また福島原発の代表取材をやめさせ、屋根の吹き飛んだ惨状を自由に報道させよ。責任を認めよ。
(回答)
 当社といたしましては、福島県ご当局と協議のうえ、平成24年1月、「福島県民健康管理基金」に対して、250億円を拠出させていただいており、健康被害対策に充てていただけるものと伺っております。
 また、当社事故と相当因果関係が認められる健康被害があった場合には、誠実かつ適切に対応してまいります。
 なお、国の活動について、当社はコメントする立場にありません。
 取材については、核物質防護に関する法令に基づき、発電所構内での撮影は一部制限があることから、基本的に代表取材にてお願いさせていただいております。
 なお、当社はホームページで福島第一原子力発電所1号機〜4号機の映像をリアルタイムで配信しています。
◯福一ライブカメラ(1号機側)
http://www.tepco.co.jp/nu/f1-np/camera/index2-j.html
◯福一ライブカメラ(4号機側)
http://www.tepco.co.jp/nu/f1-np/camera/index-j.html

4:被曝を避ける最大の方法は避難である。東電は全ての避難者に内部留保を用いて引越し代を払い、避難先での仕事と住宅を用意せよ。
(回答)
 当社は、「東京電力株式会社福島第一、第二原子力発電所事故による原子力損害の範囲の判定等に関する中間指針」等を踏まえ、本件事故との相当因果関係が認められる損害については適切に対応させていただいております。避難指示等にともない負担された避難・帰宅費用は、必要かつ合理的な範囲でお支払をしております。

5:トリチウムを含んだ汚染水を無制限に太平洋に放出することをやめよ。また、原発から放射能の放出を防ぐために、チェルノブイリ同様の石棺化を行え。なぜこれまでそれをしなかったか、いつまでに行うか、答えよ。
(回答)
 トリチウム水の取扱いについては、2016年11月より開始された、多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会」において、風評被害などの社会的な観点等も含めて、総合的な検討が行われております。当社としては、小委員会の議論を踏まえ、今後も国や関係者の皆さまと相談しながら、最終的には当社が責任をもって対応してまいります。
 廃炉に関しては、「東京電力(株)福島第一原子力発電所1〜4号機の廃止措置等に向けた中長期ロードマップ」に示されている通り、当社としては燃料デブリを取り出すという方針に変更はなく、2021年から取り出すことを目標としております。
以上

扱い:東京電力ホールディングス(株)
立地地域部 原子力センター

 

2017年7月10日月曜日

「共謀罪」=「改正・組織犯罪処罰法」の問題点――国家権力による恣意的運用それ自体を目的とする治安法 / 渋谷要

★2017、7、11施行弾劾!


「共謀罪」=「改正・組織犯罪処罰法」の問題点――国家権力の恣意的運用それ自体を目的とする治安法

渋谷要



第一節 「テロリズム集団その他」の定義を巡って



 2017615日、政府支配層・国家権力は、「テロ等準備罪」として、「共謀罪(対象犯罪277)」(組織犯罪処罰法・改正案)の国会成立を強行した。TOC条約(国際組織犯罪防止条約、パレルモ条約)の締結に必要な法律整備だという「正当性」の主張に基づくものである。だがTOC条約は、暴力団、マフィアなどがマネーロンダリングや人身売買などの犯罪をすることを処罰するもので、テロ対策の条約ではない。だから共謀罪とTOC条約の整合性には、多くの立場からの疑問がなげかけられている。

「共謀罪」の性格それ自体を私の立場から、最初に規定しておくならば、自民党改憲案の「緊急事態」条項(本論第一節参照)に先行的に準拠した人権抑圧、警察国家、戦争国家の治安弾圧立法にほかならないということだ。そいういうことが、単にアジテーションではないことは、この立法を読めばはっきりわかることだ。

同法は、「国立国会図書館」のホームページの中の「議案情報」で、検索すれば読める。件名「組織的な犯罪の処罰および犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案」、種別「法律案(内閣提出)」、提出回次(国会のこと)「193回」、提出番号「64」である。 



●「テロリズム集団その他」とは 



 同法は「組織犯罪処罰法」の改正法規であり、「組織犯罪処罰法」とは別に「共謀罪」なる名前の法律があるわけではない。ここで「共謀罪第何条」とは、「組織犯罪処罰法第何条の改正事項」。「新設事項」であることを示すものである。

同法の「第六条の二」(新設)は、次のように書いている。「テロリズム集団その他の組織的犯罪集団(この「その他」で、公安の恣意的な運用が際限なく広がる危険がある――引用者)(団体のうち、その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第三に掲げる罪を実行することにあるものをいう。……)」とされているものである。

 その者たちが、「死刑又は無期若しくは長期10年を超える懲役若しくは禁錮の刑が定められているもの」(別表4になる)の「準備行為」をしたとき「5年以下の懲役又は禁錮」になる(もう一つ同様の規定があるがここでは省略する)というのが、この第6条2だ。

 この「準備行為」は「当該行為を実行するための組織により行われるものの遂行を二人以上で計画したものは、その計画をした者のいずれかにより、その計画に基づき資金又は物品の手配、関係場所の下見その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為」とされるものである。

 こうして上記、刑事罰の犯罪法規を公安権力が、今までよりもより、恣意的に運用できるように、しようとするものに他ならない。

 だからこの別表三に何が書かれているか、どういう法律に違犯したもののことかを見ることにしよう。



●「潜在的違法事案の摘発」でつかわれてきた犯罪



 この別表3には、90個の犯罪があげられている。その一つに、刑法77条一項の「内乱」や、刑法107条の「騒乱」などが、あげられている。この準備行為の範囲は、恣意的に解釈した場合、ものすごく広くなり、およそ「帝国主義の侵略反革命を蜂起・内戦へ」などというスローガンを言っているなどの組織の経済活動総体が、少なくとも監視の対象となる可能性があるだろう。

 だが、ここでは、もう少し、現実に照らしてみてゆこう。

それが、1980年代中頃より、警視庁公安など日帝公安が「潜在的違法事犯の摘発」などと称し、微罪逮捕弾圧を繰り返してきた、以下の法律群である。

 これは例えば活動家の自分の住所と引っ越しなどで自分の自動車の住所が古い住所だったりした場合、それを「公正証書原本不実記載」「免状不実記載」などとして検挙するというものとして展開されてきたものだ。「虚偽の住民登録」(電磁的公正証書原本不実記載・同供用)などとして、でっち上げ、フレームアップの「微罪」弾圧がおこなわれてきた事例は、いくつもある。

以上のような事例に、関わるように、この表の「二ヌ」では次のような規定がある。

「刑法第155条第一項(有印公文書偽造)若しくは第二項(有印公文書変造)の罪、同法第156条(有印虚偽公文書作成等)の罪……同法第157条第一項(公正証書原本不実記載等)……同法第161条の第一項から第二項まで(電磁的記録不正作出及び供用)の罪」などがあげられている。

 これらは、公安警察の「微罪」でっち上げ弾圧であるにもかかわらず、過激派が意図的にやっているなどとして展開してきたものであり、これが、共謀罪では、「テロリズム集団その他」の行う「罪」とし、これを行う者が「テロリズム集団その他」とでっち上げられているのである。

だが、この別表三は、それにはとどまらない。

極め付けがまだあるのである。



●航空危険罪、火炎瓶法を規定



以下の項目は、三里塚闘争にかかわる新左翼は「テロリズム集団その他」だと露骨に一言っているようなものである。

この表の「五十八」として「火炎びんの使用等の処罰に関する法律(昭和四十七年法律第十七号)第二条第一項(火炎びんの使用)の罪」。「六十」として「航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律(昭和四十九年法律第八十七号)第一条(航空危険)、第二条第一項(航行中の航空機を墜落させる行為等)」などが、あげあれている。

これらは三里塚闘争において、1980年代後半、三里塚現地にある新左翼の団結小屋の撤去のため、この団結小屋が「暴力主義的破壊活動者」の結集場所となり、三里塚空港に離発着する航空機に危険な影響を及ぼしているとし、この小屋を、運輸大臣命令で撤去できるとした「成田治安法」を歴史的に根拠とするものに他ならない。この「成田治安法」での撤去を受けた団結小屋のセクトもまた、「テロリズム集団その他」と呼ばれ、新たに同法に基づいて監視などされる可能性がある。

こうして、この法は、一定の集団を想定しているということが言えるだろう。

そのことをふまえつつ、こうした監視・弾圧を広範な民衆、市民に広げ、市民社会全体を監視する体制が、この共謀罪の体制だといえるだろう。

まさにそこに法案起草者たちの真の意思・意図がある。緊急事態条項を貫徹するための治安体制の先取り的な形成なのである。



※緊急事態条項……「自民党改憲草案」では次のように、書かれている。

「草案」の「第九章 緊急事態(緊急事態の宣言)第九十八条」は次のようである。

「内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。

2 緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない。

3 内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、国会が緊急事態の宣言を解除すべき旨を議決したとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない。

4 第二項及び前項後段の国会の承認については、第六十条第二項の規定を準用する。この場合において、同項中「三十日以内」とあるのは、「五日以内」と読み替えるものとする」。

このような緊急事態の定義は、「国家緊急権」と法概念化されるものであり、国家の緊急事態における国家の「自然権」とされているものである。そしてこの規定は、実は、人民が自然権として持っている「革命権・抵抗権」と、セットの関係にあると近代民主主義の自然法概念ではされているものだ。だが「草案」は、こうした「国家緊急権」は認め、人民の「抵抗権・革命権」は、認めないというシフトをとっている。

また、「内乱等による社会秩序の混乱」なども、緊急事態と規定されているように、国家体制打倒の革命に対する弾圧の基本法として、この「草案」が存在していることは明白である。

「(緊急事態の宣言の効果)第九十九条 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。

2 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。

3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、<何人も>、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他<公の機関の指示に従わなければならない>。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。

4 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる」。

この法規の冒頭で定義している「政府は法律と同じ効力を有する政令を制定できる」とあるのは、政令は国会の審議を通さないものであって、かつ法律と同じ効力というのは、明治憲法の天皇の緊急勅令とおなじものだ。さらに、「何人も、…国その他公の機関の指示にしたがわなければならない」という国民徴用・有事動員の規定が書かれている。共謀罪はこうした体制を円滑に運営するために、常日頃から市民社会を監視し、緊急事態体制の構築を阻害するような行動(「おそれ」を含む)を弾圧することが、目指されている。もちろん、緊急事態以外の常時・平時にも、使われてゆく弾圧立法だ。(拙著では、「国家基本法と実体主義的社会観」、『エコロジスト・ルージュ宣言』、社会評論社、92頁以降、参照)



第二節 「危殆(おそれ)」の罰則規定



●表現の自由に対する監視



すでにみたように、共謀罪は、犯罪を実行する前に、警察が「準備」だと認識(でっち上げも想定される)した段階で、検挙することができる。こうしたことは、公安が目を付けた捜査対象を日常的に監視しなければ無理である。だから、表現の自由、内心の自由を際限なく抑圧する。

例えば、安保法制反対の集会に行った市民グループAが参加する地域共闘に新左翼セクト(「テロリズム集団その他」の規定として、前回見た同法の「別表第三」の犯罪を犯したとされているグループ)の組織した市民運動体Bが参加していた。公安は、それを見て市民グループAは、市民運動体Bとどういう関係か捜査する。そして、市民グループAも、同法「別表第三」に関連したグループと連絡のある団体として、今はそうでなくても、将来「テロリズム集団その他」になる可能性があり、捜査・監視の対象とされてゆくことになる。こうした監視対象の際限のない規定は、その公安部署に、これまで以上に資金が支給されることにもなり、だから、できるだけ手広く監視対象を広げるということになっていく可能性がある。

その場合、それは治安法の常とう言説としてある「おそれがある」という、危殆犯の規定とつながってゆく。犯罪を実行する「おそれ」としての「準備行為」、また、「準備行為」をする「恐れがある」共謀関係者を監視せよ(捜査権の行使として正当化される)というわけだ。そうでなければ、「準備行為」を把握できず、また、でっち上げで「準備行為」なるもののストーリーを作り上げることもできないだろう。こうして、社会運動を抑圧し、表現の自由を著しく侵害する監視秩序が出来上がってゆく。

まさにこうした「準備行為」は、罪状であって、「共謀罪」の構成要件(法律に規定された個別の犯罪類型)の規定ではない。だから、「準備行為」がない場合でも、警察権力は疑いに対してなどで捜査権を行使できるわけである。



●危殆犯としての「準備行為」



共謀罪の「準備行為」は、「計画に基づき資金又は物品の手配、関係場所の下見その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為」とある。これに対し共謀罪に反対する人々の中には、「戦後の近代民主主義国家の刑法においては、実行した行為を裁く大原則があるのに、共謀罪は、行為以前の内心まで裁く悪法だ」という言説がある。それは、一般論としては、正しいかもしれない。だが、歴史経験上は、正しくない。それこそ、戦後民主主義幻想だ。

また日本の場合、現行刑法は明治40年公布され、その大日本帝国時代の法規が戦後出直し的に新設されるのではなく、「改正」されてきたという歴史を前提としなければならない。「正しくない」と書いたのは、以下のような理由からだ。

戦後日本では、破壊活動防止法という特別刑法(1952年公布、公安調査庁設置)が設置されてきた(前回紹介した「成田治安法」なども、この系統の法規になるだろう)。破防法においては、刑法で規定する内乱、騒乱、放火、爆破、殺人などの活動の範囲について、かかる活動のための「予備」、「陰謀」、「教唆」とその「扇動」までが、かかる活動の範囲に入れられている。例えば同法の規定では「文書」「図」「言動」も、この「扇動」に入るとされる。これは思想それ自体、例えば「帝国主義打倒!」という思想それ自体を裁くものである。

現に、1969年4・28沖縄闘争(破防法401号、3号(騒擾・持凶器多衆公妨罪の扇動)、赤軍派による大菩薩峠での首相官邸襲撃訓練(同法39条、401号、3号(殺人、持凶器多衆公妨罪の扇動)、などとして、「扇動罪」での弾圧が破防法の特徴となっている。

破防法が衆議院で審議されていたとき、当時の法務総裁(法務大臣)が答弁で「扇動等の行為は、現下の事態にかんがみますときわめて危険な行動であるにもかかわらず、現行刑法の規定をもってしては、決して十分ではないからであります」と述べている。破防法が思想そのものを裁く治安維持法の思想と通底する法規であることははっきりするだろう。

戦後においても、かかる近代刑法の大原則を逸脱する法規は存在するのである。また、現行刑法(明治期に公布)においても、その一〇六条「騒擾罪」(19681021国際反戦デ―の新宿闘争(「新宿騒乱」と言われる)に適用)も「危殆犯」であり、「公共の静謐」が現実に侵害されていないときでも、その危険があると判断すれば適用できるとされている。

【※(注)この法規は1907年(明治40年)に刑法が公布された折、明治期の旧刑法(1882年、明治15年成立)「凶徒聚衆(しゅうしゅう)罪」を継承してできたものである(この場合、この法規の成立、解釈の変遷については、「足尾鉱毒凶徒聚衆事件」の大審院判決(1902年、明治35年)以降の変遷問題に触れる必要があるが字数の関係で省略する)。さらに、1995年「騒乱罪」となった。

また戒厳令が発動された1905年「日比谷焼き討ち事件」を権力は「凶徒聚衆事件」として構成している。この規定は、戒厳令中、「合囲地境」における「軍衙」における裁判の対象となる法規の一つとして「凶徒聚衆罪」が定められていたことに基づく】。

危殆犯――扇動・予備罪――「準備行為」罪これらは、すべて同一の概念と見なければならない。



●治安維持法「目的遂行」罪との重なりをもった共謀罪「6・2・2」



そうした権力の恣意的弾圧が際限なくできるシステムをつくる点で、これから見る共謀罪「第6条2の2」の規定は、重要である。

そこには次のように書かれている(文中の〈……〉は引用者・渋谷の強調です)。「テロリズム集団その他の組織的犯罪集団に不正権益を〈得させ〉、又はテロリズム集団その他の組織的犯罪犯罪集団の不正利益を〈維持し〉、若しくは〈拡大する〉目的でおこなわれるものの遂行を二人以上で計画した者も」、「準備行為」をおこなったときは、「同項と同様とする」(つまり、6条2の1と同様とする)というものだ。

ここでは、「テロリズム集団その他」に同調するシンパサイザー等々の人々が対象となっていると考えられる。例えば、公安政治警察からみて、シンパサイザーが「テロリズム集団その他」にカンパするのも、「不正(なぜなら組織的犯罪集団の権益それ自体が不正にあたるから)権益」を「得させる」行為とされるだろう。また、「テロリズム集団その他」のメンバーが参加した街頭署名の時、通りかかってカンパした人も、これに含まれる恐れがある。こうして、この規定は、際限なく恣意的な運用が可能となる規定だ。

そしてこの規定は、「國体の変革」「私有財産制度の否定」を目的とした結社、個人に対する罰則をさだめた「治安維持法」(1925年)に1928年「改正」で最高刑を「死刑」とすると同時に付け加わった「目的遂行罪」と重なり合う。

それは「結社の目的遂行のためにする行為をなしたる者」として、その人が本当に、ある結社と関係しているかどうかに関係なく、特高警察の側で、その人が、結社の「目的遂行」のために行動していると判断(でっち上げ)すれば、同法を適用できるとするものであり、結社以外の広範な人々への弾圧を可能としたものである。

治安維持法は、法益を「國体」(天皇制)護持の規定とするものだったが、「國体」という概念をはじめて法制的概念として登場させたものであり、天皇制国家を守るため、市民社会の一切の「不穏分子」を弾圧するため、市民社会総体を監視するものにほかならなかった。

こうした、公安当局のストーリーによる、でっち上げ、フレームアップ型の弾圧と、市民社会総体を監視することを目指す指向性を、共謀罪6条2の1とともに、6条2の2は、持っているといえるだろう。



第三節 「不正権益」「犯罪権益」の没収について



●共謀罪における「不正権益」「犯罪収益」の没収



これまで二節にわたり、共謀罪のポイントについて、この組織犯罪処罰法の「改正」のポイントを見てきた。

この組織犯罪処罰法と、共謀罪なる「改正案」との関係だが、この法律は、もともと、暴力団対策・オウムなどのカルト的暴力集団の経済的資源を壊滅するべく、組み立てられた法律である。だから刑法でも、経済的犯罪やサリン・化学兵器などに関する処罰規定は入っていても、いくつかの「暴力行為」を処罰する規定はあっても、内乱罪や騒乱罪、火炎瓶法など、左翼過激派など、政治的過激派対策に使われるような法規は、もともと入っていなかった。ほとんどが、経済犯罪にかかわるもので、「覚せい剤」「売春」「不正競争」「金融商品取引法」「児童福祉法」「大麻取締法」などなど、あまり左翼とは関係ないものが大半を占めている。

それに対し、今回、共謀罪「改正案」では、この政治的過激派対策の内容がこれに代入された形となっている。



●経済的処罰法の問題――「犯罪収益」規定の恣意性



例えば、この組織犯罪処罰法の立法趣旨に当たる、第一条は次のように明記されている。

「第一条 この法律は、組織的な犯罪が平穏かつ健全な社会生活を著しく害し、及び犯罪による収益がこの種の犯罪を助長するとともに、これを用いた事業活動への干渉が健全な経済活動に重大な悪影響を与えることにかんがみ、組織的に行われた殺人等の行為に対する処罰を強化し、犯罪による収益の隠匿及び収受並びにこれを用いた法人等の事業経営の支配を目的とする行為を処罰するとともに、犯罪による収益に係る没収及び追徴の特例等について定めることを目的とする」。

そして、第二条では「犯罪収益」に関する規定が列挙されている。

「第二条3この法律において『犯罪収益に由来する財産』とは、犯罪収益の果実として得た財産、犯罪収益の対価として得た財産、これらの財産の対価として得た財産その他犯罪収益の保有又は処分に基づき得た財産をいう」、「第二条4この法律において『犯罪収益等』とは、犯罪収益、犯罪収益に由来する財産又はこれらの財産とこれらの財産以外とが混和した財産をいう」としている。

「犯罪収益以外」に、これらの財産と「混和した財産」まで、「犯罪収益等」として同等にみなされるのだから、この法の適用で「犯罪集団」とされた集団の一切の財産は、「没収」「追徴」の対象となるだろう。もともと、この法の本筋はこうした経済的処罰法にほかならない。だから、政治的なものではないといっているのではない。逆だ。

これが、今回「テロリズム集団その他」に対して、次のように、作用してゆくことになる。



●反帝闘争の組織の壊滅を狙う――「没収」の規定



「共謀罪」の法規は、組織犯罪処罰法の「第二条第二項」(犯罪収益の規定)に、次の一号を加えるとして、改正案である組織犯罪処罰法の「第6条2」(新設)で規定した「第6条の2(テロリズムその他の組織的犯罪集団による実行準備行為を伴う重大犯罪遂行の計画)の罪の犯罪行為である計画(日本国外でした行為であって、当該行為が日本国内において行われたとしたならば当該罪に当たり、かつ、当該行為地の法令により罪に当たるものを含む。)をした者が、計画をした犯罪の実行のための資金として使用する目的で取得した財産」としている。これも、いくらでも、解釈可能である。

この第1章につづく第2章から、「没収」の規定が始まる。

「団体に属する犯罪行為組成物件等の没収」(第8条)、「犯罪収益等の没収等」(第13条)から、延々と規定が続いている。

こうして、「テロリズム集団その他」なるものの資金源を根こそぎ、没収しようとしている。

これは、成田治安法が、航空危険罪などの名目で、三里塚現地の団結小屋を撤去していったように、それをもっと、規模を無限にして、弾圧対象の団体の財産をねこそぎ没収する可能性を示唆するものにほかならない。

組織犯罪処罰法には、さらに「不動産の没収保全」(第27条)、「船舶等の没収保全」(第28条)、「動産の没収保全」(第29条)、「債権の没収保全」(第30条)、「その他の財産権の没収保全」(第31条)など細目にわたって規定されている。また、追徴の規定が別にある。追徴とは刑法上、本来没収できるものを没収することができないときに、その物の価額の納付を強制することである。

アメリカの「愛国者法」(20012015年)にも、テロリズム活動、支援などを対象とした資産凍結などの規定があった。



第四節 「転向」システムとしての共謀罪――手続きそのものがファシズム法



●「悪法も法」?――「治安維持法」擁護



6月2日(2017年)、 この共謀罪が審議されている衆議院法務委員会で共産党の議員の質問に法務大臣は、治安維持法はすべて適法的に運営されていた、何の問題もない旨の発言をしている。権力を法(社会契約)で拘束する・制限するという民主主義による「法の支配」という意味での法実証主義ではなく、「悪法も法」という意味での形式論理的な法実証主義であり(自民党の改憲草案では国家権威主義的(国家道徳主義的)な意味での法実証主義が顕著であるが――拙著では、「国家基本法と実体主義的社会観」、『エコロジスト・ルージュ宣言』、社会評論社、75頁以降、参照)、その法の目的に基づいて適法に運営されていたということだ。人権破壊の拷問をふくむ取り調べという名前の転向強要、スパイ強要といった、ファシズム弾圧法であったがゆえに、戦後直後、廃止されたことについては、まったく、その事実経過を忘失するような発言にほかならない。

この治安維持法は、何度か「改正」がおこなわれており、1934年(第65議会)に「予防拘禁」の規定が、1941年(第76議会)では「予防拘禁所」が設置された。34年の予防拘禁の規定は、非転向のままで釈放される者の「再犯」予防であった。それに加え、41年の規定では、「思想犯保護観察法」の保護観察では十分に再犯の危険を防止するのが困難であるとみられたときには、予防拘禁所に入れられるとした。つまり「すでに釈放されてしまっているものでも、『転向』の仕方が不十分であるとみた場合には――現実の犯罪行為がないのに――もう一度身体の拘束を課することを可能ならしめるものである」(奥平康弘『治安維持法小史』、筑摩書房、217頁)というように展開した。

予防拘禁の期間は一応、2年とされたが、非転向の場合などは、裁判所の決定をもってこれを更新できるとし、無期にわたる拘禁ができるようになった。こうした人権の圧殺の事実を、法務大臣は適法だったから良しといっているのだ。まさにファシスト法擁護の発言だ。

アメリカの「愛国者法」(20012015)もまた、テロ関係者の疑いがある外国人を、司法手続きなしで7日間拘束できるとし、さらに実際は、その期間以上に長期拘留・予防拘禁した事例がある。また、テロ関連との理由から、個人のプライバシーに関する電話やメールなどの盗聴が裁判所の決定なしで行えるようになった。

共謀罪もまた「準備行為」の把握は、こうした捜査によってしかわからず、また、デッチ上げのためのストーリーを作ることも不可能だ。

さらに、この組織犯罪処罰法においても予防拘禁のような弾圧手法の検討もめざされてゆく可能性がある。例えば沖縄での山城博治さんへの5か月にもおよぶ、不当拘留はその先取りだ。正当な抗議行動に対し、威力業務妨害、公務執行妨害、傷害の罪がつけられ、保釈に関しても、「事件関係者との面会を禁じる条件」が付けられている。これは保護観察と同じというべきだろう。

※この再犯防止の拘留延長は例えば、「拘留延長で社会復帰支援、検察が施行 高齢者らの再犯予防」(2014121日、日本経済新聞)などとして、居住・就労支援のためだとして、本人や弁護人の同意(容疑者が送検容疑を認め、拘留10日間では支援ができないときを条件としている)が必要という条件で、すでに制度として始まっている。



●転向・スパイ強要――仲間の売渡しを恫喝



また、共謀罪には「組織犯罪処罰法第6条の二」(新設)において「……その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為が行われたときは、当該各号に定める刑に処する。ただし、実行に着手する前に自首した者は、その刑を減軽し、または免除する」と規定している。

まさに、文面それ自体を素直に読めば、転向強要・仲間に対する裏切り売渡しであり、また、権力によるでっち上げ弾圧の場合は、権力のスパイが、でっち上げのストーリーにあわせて、「準備行為」と判断できる行為を、でっち上げたい人にやらせるなどの、いろいろな事例が推測として考えられるだろう。

監視(―盗聴など)、自白強要、密告・通報(虚偽のものを含む)、でっち上げ弾圧の法規、それが共謀罪だ。



●共謀罪の発動のストーリー――これとどう闘うか



共謀罪の反対運動において、野党の幹部が宣伝カーの前で、発言している動画をYoutubeなどで、よく見る。それはいい。だが、その中で、「(市民や労働組合、政党の運動ではなく)取り締まるのは、暴力団、右翼、革マル、中核に(限定せよ)」などと発言する野党の発言者の発言を聞いて、唖然とした。

ファシズムの立法は、だれに適用されても、民主主義に反し違法であり、違憲なのだ。これが、法のルールに関する民主主義の基本的な考えかたである。国会答弁で、野党は、「市民に対する不当・不法な監視」を問題にする。それはいい。だが、問題は、これまでみてきたように、法の執行そのものが憲法の民主主義的諸権利に対し、違法な手段を行使しているということであり、その段階で、まさに、弾圧の実行「準備段階」で、違憲であり、民主主義的諸権利に対する侵害を犯すもの以外ではない。だから、反対しなければならないのが、この共謀罪であり、まさにかかるファシズム立法にほかならない。

だから、誰に対しても、この法の運用は違憲・不当なのだ。
もっとも、「だから、右翼とも共闘しよう」などという主張には反対する(それは階級闘争として闘う態度ではない)が、国家権力の横暴には、反対の声をあげてゆくべきだ。

政治的運用としては左翼運動、反体制運動への弾圧法規であり、それを目的としている。だがまた、はじめは、暴力団に対してなど、左翼運動とは関係がないところに共謀罪を適用し、右翼にも、左翼にも適用するという格好で、「左翼過激派や反政府運動、環境・人権運動に対する弾圧としてだけ、特にそれだけのためにつくったのではない」などという共同幻想をばらまきながら、戦争体制の構築や、左翼運動の高揚期には、大弾圧をしかける、そういう人民抑圧の治安維持法型法制として、これが最終的に機能するということになってゆくというストーリーは設定済みと考えるべきだ。いずれにせよ、「誰に対しても行使するな!」という声をこそあげてゆくべきなのである。(了)


2017年7月9日日曜日

天皇制問題としての森友問題 /渋谷要




天皇制問題としての森友問題
渋谷要


【リード】森友問題は、①国有地売却問題(財務省理理財局長、財務省近畿財務局と大阪府が連携し、国有内格安払い下げに関する疑惑があるなどの問題)、②小学校設立認可についての「何らかの政治的関与」が疑われる問題(大阪府私学審議会における私学認可新基準と、異例の速さで認可したことに関する疑惑が浮上している問題)というものだが、もう一つ教育内容の問題がある。本論では教育内容をめぐる問題を見てゆく。



●「瑞穂の國」と教育勅語



籠池泰典氏らの森友学園は「瑞穂の國記念小學院」(「安倍晋三記念小学校」にかわり)を設立しようとしていた。この「瑞穂の國」とは、どこのことか。ここから話をはじめたいと思う。

同学園の塚本幼稚園では園児が、「教育勅語」を暗唱させられていたが、それと、深く関係している。この学園の理事長だった籠池泰典氏自身が、どういう意図で、この名前を付けたかはともかく、天皇主義・愛国教育というところでは、それは次のような想定を故なしとしないだろう。

この「瑞穂の國」とは『日本書紀』にのべられている「天壌無窮の神勅」の中に存在するものだ。そしてこれが森友学園の愛国教育の理念、教育勅語斉唱と深い、直結した関係を描くものにほかならない。 

この神勅は、次のように述べられている。この神勅は、天照大神(アマテラスオオミカミ)が皇孫であるニニギノミコトに対して述べた詔である。一九三七年、文部省が編纂した「國體の本義」から引用しよう(カタカナ部分は平仮名にした――引用者)。

「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆えまさむこと、當に天壤(あめつち)と窮りなかるべし」というものだ。

 ここに出てきた「瑞穂の國」は、天皇が永遠に支配する国だ。『國體の本義』は述べている。「天壌無窮とは、天地と共に窮りないことである」。しかしそれは、単に時間を意味するものではない。「過去も未来も今において一になり、わが国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。……我が歴史の根底にはいつも永遠の今が流れている」。

そして、次のように展開する。

「『教育に関する勅語に』『天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』と仰せられてあるが、これは臣民各々が、皇祖皇宗の御遺訓を招述したまう天皇に奉仕し、大御心を奉戴し、よくその道を行ずるところに實現される。……まことに天壌無窮の寶祚は、我が國體の根本であって、これを肇国の初に當って、永久に確定し給うたのが天壌無窮の神勅である」ということだ。つまり、「教育勅語」は「天壌無窮の神勅」を実践し、天皇の國=豊葦原の瑞穂の國を、臣民として実践するものにほかならない。



●「天壌無窮の皇運」――天皇のために死ね



まさに教育勅語の「核」となる部分は、「國體の本義」が引用・宣揚する「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という個所にほかならない。「公益を廣め世務を開き常に国憲を重じ国法に遵い一旦緩急あれば義勇公に奉し以って天壌無窮の皇運を扶翼すべし是の如きは獨り朕が忠良の臣民たるのみならず又以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん」(教育勅語)。つまり、天皇の國のために死ぬ覚悟をせよといっているのである。

「教育勅語」は、明治天皇の名で出された勅語であって明治二三年(一八九〇年)一〇月三〇日に、御名御璽として公布されたものだ。これは天皇の「勅令」(議会で裁可された法律と同等)ではないが「教育勅語」には、法律的効力があった。まさに、これは勅令と同じく、帝国議会の協賛を経ず、<天皇の大権>により発せられたという位置づけをもつものだ。

 大日本帝国の明治憲法下では、天皇大権は絶対であり、法学者も、「天皇大権主義」を憲法解釈の基本とするのが、大きな勢力を占めていた。

 そして大日本帝国に日本をもどそうとする人々にとって、この、一九四八年に立法府において排除(衆議院)、失効(参議院)された、この「明治天皇の勅語(の精神)」を復活させる願望は、戦後、生き続けてきた。



●「愛国心」の意味



「愛国心」ということを、「教育勅語」の精神で考えることを主張する人々の中に、安倍首相のブレーンである八木秀次氏(麗澤大学教授・法学者)がいる。二〇〇六年「新しい教科書をつくる会」から独立してつくられた一般社団法人「日本教育再生機構」の理事長などとして活動している。八木氏はこう述べている。

 「『国を愛する心』は自分がその国に生まれたことを宿命として受け止め、国と運命を共にする覚悟、場合によっては国のために『死ぬ』ことすら厭わぬ『愛国心』」だと表明している(「保守派の油断がもたらす危機――教育基本法改正に仕込まれた革命思想」、『正論傑作選 憲法の論点』所収、『正論』編集部編、発行・産経新聞ニュースサービス、発売・扶桑社、二〇〇四年、二七七頁)。まさに、「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」ということだ。

 これは二〇〇六年に改正施行されることになる「教育基本法」を批判してのものだ。改正「教育基本法」が「国と郷土を愛する心」などという文言を入れているが、その国とは、「『新しい「公共」』の別名に他ならず、人々の社会契約によって『つくられる』国家のことである」、だがそれは「日本の歴史を継承する歴史的な存在としての日本人ということではない」(前掲二七七頁)との理由からだ。

 

●教育勅語と戦後教育基本法は矛盾しない――「道徳教育」の欠損という主張



こうした八木氏の主張の論点は、「教育基本法――その知られざる原点」(『誰が教育を滅ぼしたか』、PHP、二〇〇一年)に展開されている。それは一言でいうならば、戦後の教育基本法は、教育勅語(の精神をもった道徳教育)を排除するものではないという主張である。

 戦後一九四八年、衆議院と参議院で教育勅語に対する排除、失効の決議が行われたが、その一年三カ月前に、制定・施行されたのが「教育基本法」だった。その「教育基本法の起草に携わった日本側関係者は何れも教育勅語の道徳的権威を主張し、教育勅語との両立を前提に教育基本法の制定を構想していた」(一〇〇頁)というのが主張としてまずある。つまり、八木氏の言葉で戦後教育基本法の「立法者意思」は「教育勅語擁護」だったということだ。文部大臣など一人ひとりがどう考えていたかが詳論されているが、ここで扱う余裕はない。

八木氏は次のように展開してゆく。両院における教育勅語の廃止決議は、GHQの発意・主導でなされた。だが、教育勅語自体、明治期における「教育荒廃」を背景としてうまれたものであった。その教育勅語を廃止し、こうして「戦後教育は…教育勅語を失った形で出発した」。「私は教育勅語そのものに拘っているわけではない。教育勅語の復活を主張したいのでもない。私がここで言いたいのは、今日の教育の『危機』を目の当たりにした時、そもそも教育勅語が担うべきことを想定されていたために教育基本法には積極的には規定されなかった道徳教育の理念をもう一度、『基本』に立ち戻って補充する必要があるのではないかということである」(前掲一一三頁)というわけだ。

こう見てくると、現政権が今年(二〇一七年)三月三一日にした「教育勅語」に関する閣議決定での論法、「学校において教育に関する勅語をわが国の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切」としつつ「教育基本法などに反しない形で教材として用いる」ことはできるということになるだろう。

安倍首相らは、森友学園は切ったとしても、それで愛国教育を否定するとはならない。まさに弥縫策としての閣議決定だ。まさにこの閣議決定は、一九四八年に行われた、教育勅語に対する立法府の「排除・失効」決定を破壊することを意味する。

※この「閣議決定」は、民進党・初鹿明衆議院議員が提出した質問趣意書(教育勅語を学校教育で使用することを禁止することを求める旨のもの)に対してのものであった。



●稲田朋美氏の教育勅語擁護



こうした教育勅語擁護の姿勢は、安倍内閣では顕著である。例えば、稲田朋美防衛相(二〇一七年六月現在)などは、二〇一七年三月八日の参議院予算委員会で、社民党の福島瑞穂副党首が、稲田朋美氏が、〇六年に月刊誌の対談で「教育勅語の精神は取り戻すべきだ」と述べたことに対し、「教育勅語が戦争への道につながったとの認識はあるか」と質問したのに対し「そういう一面的な考えはしていない」と反論した。また、「親孝行や友達を大切に」とかが「核の部分」であり、「道義国家をめざすこと」が中心だとの内容を答弁した。

安倍内閣の閣僚のうち神道政治連盟に所属している閣僚が大半をしめているといわれるのも、うなずけるというものだ。

たとえば稲田朋美氏などの場合、以下のような関係が展開している。稲田氏は生長の家学生会全国総連合や、反憲法学生委員会全国連合を生みだす生長の家の創始者・谷口雅春の『生命の実相』から影響を受けているようだ。二〇一二年四月(衆議院議員二期目)に、靖国神社でおこなわれた「第六回東京靖国一日見真会」で、「ゲスト講演」した稲田氏は、祖母から受け継いだ古く、何十年も読み込まれた『生命の実相』(の中の一冊)を参加者に見せて、講演したことがあったという。



●安倍と松井大阪府知事を結び付けた八木氏



実は、この八木氏の「日本教育再生機構」の「日本教育再生機構大阪」が、二〇一二年二月二六日に大阪でおこなった「教育再生民間タウンミーティングin大阪 教育基本条例の問題提起とは」というシンポジウムで、安倍晋三氏(当時・元首相)と松井大阪府知事が出会い、八木氏がとりもって、教育理念などの問題で、意気投合したのが、森友学園「忖度」問題のそもそもの始まりだという分析がある。

大阪教育基本条例とは何か

 二〇一二年三月に施行された「大阪府教育行政基本条例」は、その第四章冒頭で、教育振興基本計画の策定において、「知事は委員会(大阪府教育委員会のこと―引用者)と協議して基本計画の案を作成するものとする」とある。これが首長の教育委員会への介入であるとして、大阪のさまざまな教員組合などがこの条例に反対している。また、第九条四項においては「委員会」は生徒らへの「指導」が不適格な「教員」に対し「免職その他の必要な措置を厳正に講じなければならない」としている。これが、不当解雇攻撃を正当化するものであることは、火を見るより明らかだ。こうして、「教育の正常化(右傾化)」、教育労働運動の解体を促し、日の丸教育をつくっていこうとする意図がはっきりと表明されている。

まさに、「日本教育再生機構大阪」が開いた、二〇一二年二月二六日のシンポジウムは、こうした条例の成立とリンクしている。 



●全部つながっている



そもそも安倍首相は日本会議の会員(同会議の「国会議員懇談会」)であり、森友学園の当時・理事長だった籠池泰典氏は、日本会議大阪支部「運営委員」にもなった。また籠池氏の娘の「瑞穂の國記念小学院準備室長」籠池町浪氏は、例えば二〇一七年三月一九日開催の「シンポジウムin芦屋 これからの歴史教育を話し合おう」に講師として参加が予定されていた(見合わせたという)が、そのシンポは「日本の歴史文化研究会」と「日本教育再生機構兵庫」の共催だった。その「日本教育再生機構」の理事長である八木氏も日本会議系右翼学者にほかならない。

さらに前記、「小學院」の「名誉校長」に安倍昭恵氏が就任した時、二〇一五年九月の同学園の「塚本幼稚園」での講演会では、「瑞穂の國記念小學院を語る」との演題で講演した安倍昭恵氏は「せっかくここで芯ができたものが、(公立)学校に入ったとたんに揺らいでしまう」とまで言い放ったのである。

また、この日本会議の事務方は、菅野完『日本会議の研究』(扶桑社新書、二〇一六年)が詳論しているように(特に二五〇頁以降)、かつての右翼学生運動「反憲学連」(反憲法学生委員会全国連合)のOBたちが担っている側面をつよくもつものである。まさに安倍首相側、大阪維新の会、籠池氏ら森友学園、日本教育再生機構、日本会議は、すべて、天皇主義・愛国教育で一体なのである。



●「トカゲの尻尾切」は成功するか



それが今回の森友問題で、「籠池なんて知らない」となり、籠池氏が国会の証人喚問(二〇一七年三月二三日)のとき、「トカゲの尻尾切にならないように」との籠池氏の発言となっていった。このトカゲの名前こそ「日本会議」だということだ。

日本会議は大阪支部が、二月一七日(二〇一七年)、籠池氏が「大阪支部長」だと報道した、週刊文春と週刊新潮に、「支部長ではない」旨の訂正記事を要求した抗議文を送っている。さらに、日本会議事務総局は、三月一三 日、「六年前の平成二三年一月に本会を退会されている」との文書を同組織の国会議員懇談会の各議員に配布などしている。関係性を否定したいとの考えからだろう。

大阪維新の会の松井大阪府知事は、籠池氏が国会の証人喚問で「松井知事に梯子をはずされた」と述べたことに対し「当たるところは僕しかないのか、痛々しくかわいそう」などと皮肉るなど、無関係を装っている。

また、稲田朋美防衛相(二〇一七年六月現在)も「一〇年ほど会っていない」「関係は、私にはない。断っている」と国会で答弁しているが、稲田氏は籠池氏が会員として参加してきた「関西防衛を考える会」の「特別顧問」をしてきた。一方籠池氏は例えば二〇一一年からは大阪護国神社で同会などが開く花見の実行委員長をするなどしてきた人だ。だが関西防衛を考える会は、「塚本幼稚園」などへの寄付などは一切していないと切り捨てに必死だ(『AERA dot』三月一七日、一六:三一「愛国爆弾が国会で炸裂へ」参照)。

また安倍首相は籠池氏との関係について二月一七日の国会では、「妻から森友学園の先生の教育は素晴らしいと聞いている。いわば私の考え方に非常に共鳴している」といっていた。だが二月二七日には「教育の詳細は承知していない。安倍首相がんばれと園児に言ってもらいたいということは全くさらさらない」となり、二八日には「(籠池理事長と)個人的関係は全くない」と国会での答弁を籠池氏との関係否定に変えていった。籠池氏とつながっていた人々がトカゲの尻尾切におわれ、この問題を早く終わらせたいとやっきになっている。この人たちにとって、ほとぼりが冷めるまでは、森友学園を媒介に作られたいろいろな関係性を後景化させたいところだろう。

一九八〇年代のリクルート事件では、天皇主義者・中曽根康弘前首相(当時)が、自民党を離党に追い込まれ内閣は総辞職、その後の第一五回参議院通常選挙では自民党は建党史上、初めての参議院過半数割れをおこして惨敗するなど自民党にとっての政治危機を招いた。この間の森友問題では、安倍首相は「私や妻が関わっていたということになれば、…間違いなく総理大臣も国会議員も辞めるということは、はっきりと申し上げておきたい」(二〇一七年二月一七日、衆議院予算委員会)と言い切っている。だからこそ籠池氏を「トカゲの尻尾切」にして、逃げ切ろうとしているのだ。(2017627



(初出:『人民新聞』No.16162017525日号第四面、「籠池氏との関係を懸命に否定する日本会議 天皇主義愛国教育で一体――安倍首相・維新の会・森友学園・日本会議」に大幅、加筆)

2016年5月12日木曜日

社会民主党・考


社民党が、民進党との合流を「打診」していることが、報道された。
日本の左翼の中には、戦後の「日本社会党」の幻影を未だに、頭の片隅にもっておられ、そのために、そういう「打診」に首をかしげる方もおられるかもしれない。また、沖縄をはじめ、全国で、社民党は反基地、「安保法制反対」の運動を展開しており、その点は評価すべきだという意見もあるだろう。それはそのとおりだ。だが、ここで、問題になっているのは、個々の問題ではなく、社民党が、何を自分たちのパラダイムとし、政治的ヘゲモニーを組織するときの方法としているかということだ。
 社民党は、今年の京都市長選挙など、地方首長選挙では、自民党や民主党(民進党)と、相乗りの選挙協力をつづけてきた。その地方の社会的ヘゲモニーの土俵で、自分たちの多数派獲得をめざす・政治的ヘゲモニーを確保するという社会民主主義の「王道」を順守している。日帝権力と、あるところでは闘い、あるところでは闘わない。これが、改良主義的政策路線をとる社会民主主義の基本だ。
 だが、これでは、日帝に対する「革命的祖国敗北主義」は、貫徹できないのだ。ここに、社民党のアポリアがある。社民党は、完全に<国家支配階級としての自民党>とは闘えず、民主党→民進党と同じスタンスに立っているということは、すでに「自社さ」政権以降、はっきりしている。
その決定的文書に、1990年代初頭において表明された日本社会党の「社会民主主義とは何か」という、綱領的文書がある。これで、自社さ政権も可能となったのである。

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社会民主党・考
                                       渋谷要


日本社会党は、戦後久しく綱領的文書であった「日本における社会主義への道」を最終的に放棄したのち、それに代わる綱領的文書を、日本社会党の社会主義理論センターが、1990年に発表した。それが「社会民主主義とは何か」だ。この文書の前半部分の主要部分と考えられるところを、ここでは読んでみよう。後半部分は、各論になってゆくので、ここでは、省略する。この文書は、まさにソ連東欧圏の崩壊の中で書かれており、ソ連スターリン主義は破産した、これからは社民主義だという歴史認識が伺えるものとなっている。

ここでの、ポイントだが、この文章で、もっとも、ナンセンスなのは、共産主義を戦略的に敵視していることである。

「周知のように、国際社会主義運動は、第一次世界大戦後大きく二つの組織に分裂した。一つは社会民主主義者の労働社会主義インターナショナル(一九二三年五月結成、通称第二インターナショナル)であり、いま一つはマルクス・レーニン主義者の共産主義インターナショナル(一九一九年三月結成、通称第三インターナショナル)である。この二つの組織は、傘下の党が一九三〇年代フランス、スペインで反ファッショ人民戦線政府運動を行ったさいに共闘したほかは終始、激しく対立しあった。対立の原因は、第二インターナショナルが議会主義と漸進的社会改良による社会主義の実現を主張したのに対して、第三インターナショナルがそれと真っ向から対立する武力革命によるソビエト政権の樹立を主張したことにある」(「【1】歴史的に規定された社会民主主義の概念」の「4」)と。

そして、第一次大戦における、ドイツ社民党の帝国主義戦争参戦や、これに反対したローザらスパルタクスブント虐殺、社民党:国防大臣ノスケの義勇軍(フライコール)の展開が、ナチス武装組織形成へと展開したことを、一切、覆い隠すものとなっている。

こんなことが、ゆるせるとでも思っているのか!!

社会民主主義は日本でも、戦前、改良主義の社会大衆党が日本共産党のようにも闘えず、戦時総翼賛体制にのみこまれていった。

西欧社会民主主義は単に議会主義で、日和見主義だからダメだということではなく、帝国主義の戦争を支えた民間反革命そのものだということである。まず、そのことを西欧社会民主主義者は、はっきりと自己批判するべきではないか。

例えばブレアのイラク戦争参戦などの西欧社民の帝国主義の侵略反革命参戦などは、彼らの綱領的前提である西欧民主主義的価値の防衛を例えば、共産主義からの防衛、西洋文明を否定するイスラム原理主義過激派からの防衛など、帝国主義と同一ベクトルをもってなそうとしてきた、その考え方に拠っているのだ。

そういうかれらの、ブルジョア近代の価値観から生み出されてきたのである。
そして、かれらは国際資本主義の共通の価値の防衛・利害の防衛をブルジョアジーとともにになうことで、資本主義改良のヘゲモニーをとってゆくことができると、妄想してきたのである。まさしく、戦争も労使協調でやる。これが西欧社民主義の歴史の中で、現実に展開されてきたことではないのか!! まさしく、正真正銘の反革命戦争の思想、それが西欧社会民主主義だ!


以下、主な内容について、読んでゆこう。


社会民主主義とは何か(前半部分、以下は省略)

一九九〇年七月二六日

日本社会党・社会主義理論センター

*西欧社会民主主義の立場から社会民主主義概念を整理した文書。出典は『月刊社会党』一九九〇年九月号(第四一九号)長文のため2ページに分けて掲載。 ……

(*この文書は中央執行委員会の諮問を受けて、社会民主主義の一般的考え方を整理したものである)


【Ⅰ】歴史的に規定された社会民主主義の概念(略)

【Ⅱ】 社会民主主義とは何か

 6 社会民主主義に対する今日的定義は、社会民主主義を掲げる各党が共同で作成した社会主義インターナショナルの宣言のなかから得ることができる。一九五一年、社会主義インターナショナルは創立にあたって『民主的社会主義の目標と任務』と題する宣言(フランクフルト宣言)を採択したが、この宣言は第二次大戦後の社会民主主義がどのようなものであるかを示しており、一九八九年六月に開催された社会主義インターナショナル大会で採択された『社会主義インターナショナルの基本宣言』(ストツクホルム宣言)は、社会民主主義の現時点における到達点を示すものである。以下、これらの宣言によりながら今日の社会民主主義がどのようなものであるかを明らかにしたい。

一 基本価値の実現が社会民主主義である

7
 社会民主主義は、実現すべき基本価値(基本理念)として自由、公正(平等)、連帯の三つを挙げる。政治、経済、社会、文化など人間生活のあらゆる領域で人びとが連帯して自由を実現し、公正(平等)を実現するのが社会民主主義である。

8
 自由、公正(平等)、連帯は一挙には実現できない。たゆみない民主主義的改革によって一歩一歩実現される。その意味で社会民主主義は「社会と経済の民主化、社会的公正を増大する持続的な過程である」(ストックホルム宣言)。現に普通選挙制、労働三権、社会保障などさまざまな民主的な制度が行われているが、さらに基本価値を実現するための諸政策が実現されることによって社会民主主義的社会編成はいっそう前進していく。永続的なこの過程が社会民主主義を発展させ、成熱させていく。社会民主主義が発展することによって人間解放、人間性の自由な発展が可能になる。

 9 社会民主主義は、基本価値を実現するためにどのような政策手段が最適であるかをあらかじめ決めることはしない。その国の政治的・経済的条件のもとで自由や公正や連帯を実現するうえで最適な手段を選択する。従って基本価値を実現する運動は国によって当然異なることになる。イギリス労働党はかつて国有化政策を実行したし、ミッテラン政権もその初期に国有化政策を行ったことがある。西ドイツ社会民主党は、「同権にもとづく参加」という社会民主主義の基本路線にたって企業レベルだけでなく社会レベルにおいても共同決定を追求している。「民主的社会主義をめざす各国のたたかいは、政策面での相違と立法措置での違いを示すであろう。それらは歴史の違いとさまざまな社会の多様性を反映するであろう。社会主義は、もはやそれ以上の変革も改革もできず、発展させることもできない最終的で完成された社会主義の青写真を持つ、などとは主張しない。民主的な自主決定をめざす運動には、各人と各世代が独自の目標を設定する以上、常に創造のための余地が存在する」(ストックホルム宣言)のである。

10 これに対して、ソ連型社会主義では社会主義を実現する手段は最初から決められていた。議会主義を否定するプロレタリアート独裁(共産党の一党独裁)と市場を追放する中央集権的計画経済が社会主義を実現する政治的・経済的手段であった。長期にわたる実験の結果、この社会モデルは無惨にも崩壊した。プロレタリアート独裁が社会主義の目的である自由と民主主義を圧殺し、中央集権的計画経済が国民経済を破局的停滞に導いたのである。ソ連、東欧では共産党一党独裁と中央集権的計画経済が放棄され、複数政党制と市場経済の導入が決定された。手段が目的の達成をさまたげるとき、その手段が放棄され、別の手段が選択されるのは当然のことである。

11 社会民主主義は、一つの完成された社会モデルを描くことはしない。基本価値を実現する手段は多様であり、基本価値を実現する運動は永続的であって完成した社会モデルを描くことはできないからである。民主的な経済制度や社会制度ができることによって公正(平等)が前進した、とする。それは明らかに社会民主主義の発展である。しかし社会民主主義は、いくつかの民主主義的な制度ができたからといって完成することはない。さらにより多くの自由、より進んだ公正をめざして運動が進むからである。

12 人間生活のあらゆる領域で自由、公正(平等)、連帯を実現するためには、人びとの積極的な参加がなによりも必要である。その意味で「参加と民主主義」は社会民主主義の基本路線である。社会民主主義は「最高の形態における民主主義」(フランクフルト宣言)であるといわれるゆえんである。


13,14(略)


15 政治的民主主義の行われているわが国では、憲法の規定によって国会が国家権力の最高機関である。普通選挙権をもつ国民の自由な意思によって選ばれた国会議員が、国民のさまざまな意見や利益を代表して討論し、法案の採択をつうじて国民の最高意思を決定する。国民の多元的な意見や複雑な利害が国会で調整され、国民生活のあり方が決定されていくのである。
 社会民主主義政党は国民の最高意思が決定される国会を重視し、基本価値を実現するために必要な諸法案の国会通過のために努力する。日常的な政策形成活動、法案提出と徹底的な審議、法案の成立とその実施、これが議会主義を基本路線とする社会民主主義政党の中心的活動である。

16 わが国のように国会で多数を占めた政党が内閣を組織できる国では、国会をつうじて政権を獲得することができる。従って社会民主主義政党は、国会選挙で国民の多数の支持を得て政権を獲得し、社会民主主義の基本価値を実現するための諸政策を実施する。政策が国民の支持を失い、選挙で過半数の議席を得ることができなければ、当然野に下って捲土重来を期する。

17 このように議会制民主主義のもとでは、国家権力を組織するのは結局は国民である。国民が国会議員を選び、国会の多数派が内閣を組織し、内閣が裁判官を任命するからである。現代国家はその意味でまさに民主主義国家であって階級国家ではない。自由民主主義政党が国会で多数を占めれば、国家は財界の意向に沿って機能することが多いであろう。逆に社会民主主義政党が多数を占めれば、国家は勤労国民の利益のために機能することが多いであろう。民主主義国家は国民の選択の結果、このように大資本の利益を反映することもあるが、勤労国民の利益を反映することもある。もはや大資本の階級支配のためだけの国家ではない。それは社会民主主義運動、労働組合運動が長年の苦闘の末に獲得した国家でもある。これらの運動によってかちとられた政治的自由と民主主義のおかげで、社会民主主義政党は現代国家に参加し政権政党になることができるのである。このように、現代国家はもはや一部の経済的強者のためだけに機能するのではなく、社会保障制度の発展に端的にみられるように国民のなかにある貧困と不平等をとりのぞくためにも機能する。現代の民主主義国家は、自由な選挙権を行使し、平等に政治に参加した成年男女によって形成されたものであり、それゆえ、国民的利益に奉仕することがその任務でなければならない。

18 とはいえ、現代日本国家の中枢を形成する官僚機構には、長期にわたって政権を独占してきた自由民主主義政党と財界の強い影響がみられる。政府が組織する各種審議会も自由民主主義政党と財界の政策推進機関となっている。官僚機構の民主化と各種審議会への国民参加がきわめて不十分なのである。社会民主主義勢力の力量不足の結果というはかはない。

19 権力の集中は、民主主義の実現をさまたげる。民主主義の発展のためには集権化された権カを分権化することが必要である。分権が進めば進むほど人びとの政治参加は容易になる。自治と分権によって政治的民主主義は前進する。


――――――ここまで。


以上、読んできた文章には、さまざまな問題点があるが、一点だけ指摘しておこう。


その一つに「17」全文の問題がある。


「17 このように議会制民主主義のもとでは、国家権力を組織するのは結局は国民である。国民が国会議員を選び、国会の多数派が内閣を組織し、内閣が裁判官を任命するからである。現代国家はその意味でまさに民主主義国家であって階級国家ではない」。


ここでは国家というものを、議会と議員内閣制にきりちぢめている。国家の実体をなすのは、官僚制度と常備軍、つまり軍事的官僚的統治機構である。この官僚制度には警察機構など、公的暴力機関がふくまれる。例えば民主党の改革も、官僚制度そのものをなくすわけではない。議会選挙こそ、階級支配とそのための機関を覆い隠すものにすぎない。


「自由民主主義政党が国会で多数を占めれば、国家は財界の意向に沿って機能することが多いであろう。逆に社会民主主義政党が多数を占めれば、国家は勤労国民の利益のために機能することが多いであろう。民主主義国家は国民の選択の結果、このように大資本の利益を反映することもあるが、勤労国民の利益を反映することもある。もはや大資本の階級支配のためだけの国家ではない。それは社会民主主義運動、労働組合運動が長年の苦闘の末に獲得した国家でもある」。


このようにいうことで、結局、ブルジョアジーの支配を肯定してしまっている。階級搾取をなくすためには、労働力の商品化を廃絶しなければならない。それは労働者の生産自治を通じて可能となるのであり、当然、現代国家に替わるプロレタリアの共同社会、パリ・コミューン型の共同社会、マルクス主義的に言えばプロレタリア・ソビエトに根ざした国家が求められることになる。


以上のようなプロレタリア革命を否定する社民主義の「階級支配のためだけではない」無階級国家=行政(政策)国家論は、ブルジョアジーによる生産手段の階級的領有に手をつけず、労働力の商品化は容認することになってしまう。その結果、非妥協的な階級闘争のプロレタリア革命としての決着を否定するのであるから、資本家と労働者の階級闘争の調停・統制を本来の国家の機能と考えるような「第3権力」としての国家権力をも容認する以外ないことになる。


「これらの運動によってかちとられた政治的自由と民主主義のおかげで、社会民主主義政党は現代国家に参加し政権政党になることができるのである。このように、現代国家はもはや一部の経済的強者のためだけに機能するのではなく、社会保障制度の発展に端的にみられるように国民のなかにある貧困と不平等をとりのぞくためにも機能する。現代の民主主義国家は、自由な選挙権を行使し、平等に政治に参加した成年男女によって形成されたものであり、それゆえ、国民的利益に奉仕することがその任務でなければならない」。


こうして、「現代国家」の価値観自体は、防衛すべし、ということになり、ブルジョア国家(階級国家)としての打倒の対象ではなく、改良の対象と措定される。


「(現代国家は)国民的利益に奉仕することがその任務でなければならない」という、現代国家を運命共同体とする国家の共同幻想性にまきとられた見解にほかならない。


それからさらに、この国家は、近代民主主義の市民にとって対外的にも「運命共同体」だとなり、戦争(対外的な公的暴力の発動)に際しては、平時からの労使協調を背景として、祖国防衛主義=城内平和政策がとられることになる。つまり、国家の共同幻想性が展開するのである。


マルクス主義国家論をめぐっては、国家の本質なるものが実体化され、「本質=公的暴力」説と「本質=共同幻想体」説とが論争してきたが、この社民主義との対比から、わかることは、「本質=公的暴力」説を否定することは、「本質=共同幻想体」説も同時に否定することだということだ。


「18 とはいえ、現代日本国家の中枢を形成する官僚機構には、長期にわたって政権を独占してきた自由民主主義政党と財界の強い影響がみられる。政府が組織する各種審議会も自由民主主義政党と財界の政策推進機関となっている。官僚機構の民主化と各種審議会への国民参加がきわめて不十分なのである。社会民主主義勢力の力量不足の結果というはかはない。」


こういう「18」が指摘する現実は、資本家階級の階級支配の政治委員会としてブルジョア国家が成立していることを確認するもの以外ではない。


以上は、社民主義の無階級国家=労使協調=城内平和に対する、基本的な批判的観点の確認だ。

 こうして、自社さ政権→民主党連合政権・閣内協力→民進党との合流打診。地方首長選挙での、自民、民主との相乗り選挙協力(地方的主流ヘゲモニー路線ともいうべきもの)が、展開してきたのである。



2014年9月19日金曜日

1918年左翼エスエル・モスクワ蜂起について






ボリシェビキ一党独裁の成立の経緯についての話です。
一党独裁を決定づけた、
1918年、左翼エスエル・モスクワ蜂起の背景説明ともなっているものです。


レーニンと論争しているのは、左翼エスエル(社会革命党)指導者で、
農民ソビエト議長の
マリア・スピリドーノワ(当時の党内の愛称はマルーシャ)です。


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ここには、ロシア10月革命派である最高指導者をマリア・スピリドーノワ(愛称・マルーシャ)とする左翼エスエルと、ボリシェビキの1918年における党派・権力闘争が画かれています。が、解説、内容の組み立て方が、実に良いとおもいます。


ブレストリトフスク講和条約は、ウクライナなどロシアの穀倉地帯をドイツ軍が占拠することをゆるし、中央ロシアの都市部に穀物が行かなくなることを結果すると、左翼エスエルは指摘していました。それと、ボリシェビキの「農村への穀物徴発」とは、密接に関係があることだった。なぜなら農村部への食糧徴発は、中央農業地帯と、ヴォルガ河流域の農業地帯に依る以外なかったが、そこは、エスエル、左翼エスエルの牙城だったからである。「徴発」は「富農」からといわれていたが、農民全体が収奪の対象となった、そこで、ミール農耕共同体農民を「徴発」から守るため、左翼エスエルとしては、ボリシェビキとの内戦に突入するという選択肢を選択した。
 左翼エスエルが講和に反対して武装蜂起した闘いには、いろいろな見方や見解が、左翼エスエル党内や、今日までの支持者の中にも存在するけれども、ミール、オプシチーナ農耕共同体を防衛するという、エスエルの断固とした意志と、共同体農民との血盟にかけた戦いだったということだけは、確認するべきだと思います。


このボリシェビキによる「穀物徴発」ですが、左翼エスエルは、農作物の公定価格の引き上げや、農村ソビエトが各農家の農産物などの数量を管理しているから、そのシステムを活用すればいいと提案したが、そういう経済政策を、ボリシェビキは最初から退け、暴力・強制で「徴発」政策を最初から展開したのです。それはどうしてだろうか?ボリシェビキの自由にならないヘゲモニーが農村にあることを、最初から、ボリシェビキは良く思っていなかったということです。


(注・1920年代、1930年にスターリンが廃止する前の時期では、ロシア農民の8割が、共同体に属していた。レーニンの『ロシアにおける資本主義の発展』での共同体解消論は、予測がはずれていた。なぜなら、ロシアは、世界資本主義の中心部に対しては、原料供給国としての性格を持っており、工業化での資本の原始的蓄積が部分的にしかおこなわれず、共同体は解体せず、反地主闘争などを展開し、1917以降の農業革命へと展開してゆくのである。これを、自党派のヘゲモニー以外のヘゲモニーの成長として、よく思わなかったのがボリシェビキだったのだ)。

2014年9月17日水曜日

試論・放射能被ばくとの闘いと日帝の祖国防衛主義――革命的祖国敗北主義と抵抗権で闘おう! 



試論・放射能被ばくとの闘いと日帝の祖国防衛主義
 ――革命的祖国敗北主義と抵抗権で闘おう!

                                                       渋谷要




※本レポートの注意点(必ず読んでください)。
本レポートは、問題意識としての論脈を鮮明にするために書かれたものであり、論脈だけで書かれている。したがって、どうしても説明する必要があった<2>の当該論述部分以外、論中の各事項に関する説明は、意識的に省略したものとなっている。論文にするときは、これらの各事項は、その内容を説明しなくてはならないものとしてある。
               <Ⅰ>
日帝国家権力のこの間の福島原発事故に対する対応の基本になっているものは、放射能汚染の賠償額の軽減政策・管理費用の軽減政策であり、そのために地域の汚染調査・住民の健康診断を不徹底にしてしまうことであり、福島事故原発労働者の被ばく線量管理などに関する諸問題、そして除染作業での被ばく問題をはじめ(これらの労働問題では「被ばく労働を考えるネットワーク」のHPなどを参照のこと)、放射能をまき散らし、あるいは移動させるだけの「除染」(もちろん、そのすべてが不要だとは、言えない)などとして、それは原発再稼動の前提をなす、放射能汚染の後景化・隠蔽政策として展開されている。そうした日帝の原発事故対応は、日帝権力者たちと日本経団連などのブルジョアジーたちが、統治技術として自分の国で利害関係をつくりあげてきた、その国家の様々な利害関係を壊さず維持し拡大してゆくという階級的利益をまもるものとして意味をもつところの、帝国主義国の「祖国防衛主義」以外の何ものでもない、ということだ。地方自治体においても、その地域における地域権力の利害関係が存在する。
例えば、福島での甲状腺がんの多発化は、多発ではなく、また放射能汚染とは関係ないなどというたぐいの原発推進派たちの対応が、それだ。そうして、早く以前から住んでいた住居地に帰還させようとし、それによって、住民の移住・避難の権利は、ないがしろにされてきたのである。まさに統治技術としての「人口政策」の帝国主義的コントロールということだ。
これに対し第一に、放射能汚染の国家責任、賠償、移住・避難の権利の徹底化、調査・検査、汚染物資の徹底管理そして、いまも続く事故の完全な情報公開などをもとめ、それが国家財政の危機を招くようであっても、徹底的に行なわれることを求める立場が、帝国主義国における祖国敗北主義の立場である。
そして第二に、それらを実行させてゆくものとして、あるいは、それらの政策を現国家体制が行なわない以上、それらの政策を実現するために、現政権を打倒するため、とられる自然法上の権利として、人民の抵抗権が、措定されるべきだというのが、本論の主張である。
まさにグローバルな放射能汚染の進行と展開のなかで、人民は「生命と財産」を危機に落とし込められ、人権を蹂躙されつづけている。かかる人民の平和的生存権(平和の内に生きる権利)を破壊する政権に対しては、人民はこれを打倒するため、平和的生存権が確保される状態を取り戻すために、抵抗権を行使することが必要である。
(注:さらに、もとより、各地、原発建設においては、日帝権力者たちは、反対運動に対して、警察機動隊を大量に投入し、暴力で反対派を弾圧した。そして、建設現地で、反対の声を上げている人たちを村八分にして、抑圧してきた。こうしたあり方には、それ自身、国家責任がとわれなければならない。まさに、国家暴力で原発は建設されてきたのであり、そうしたことも、人民の抵抗権の発動を正当なものとする権力側の不当性の根拠を立証するひとつの根拠をなすものと言えるだろう)。
<Ⅱ>
さらに、帝国主義国の祖国防衛主義として行われていることを見てゆくならば、以下のような重要な問題がある。
例えば「20ミリ問題」とは、もともと、米帝国主義の核戦略のための機関でしかないICRPが原子力事故からの「復興期」における被ばく限度として「年間1ミリ~20ミリシーベルト」と定めている、その上限の「20ミリ」を日帝が、基準にし、賠償削減政策を展開しようとしてきたという問題である。それは又、内部被曝を計算に入れず、内部被曝のリスクはわからないなどという、ふざけた主張を、基準にしてきたICRPの問題を、まったく隠蔽することから、立てられているものにほかならない。
さらに、食品の基準値でも、たとえば、野菜の基準値では、セシウム137の値は、チェルノブイリ事故原発に向き合っているウクライナで、1㎏当たり40ベクレルに対して日本では1キログラムあたり100ベクレルと、2倍以上の緩さだ。「今まで通りで、生産できます」としているわけである。ゼロベクレル派から見れば、これ自体が全くナンセンスな人民虐殺政策である。
そうしてまで日帝権力者たちは、賠償・保障低減・削減政策、汚染管理費低減・削減政策をとり、従来からの市場経済の利害関係を一つの秩序として維持しようとしているのだ。
さらに全国的に大問題となったガレキ処理の問題以外でも、例えば、汚泥の問題が存在している。
これは一つの事例にすぎないが、例えば、広瀬隆『第二のフクシマ、日本滅亡』(朝日選書)では次のようなデータが記述されているのだ。
「(2011年)6月16日、全国各地の上下水処理施設で汚泥から放射性物質が検出されて深刻になってきたため、政府の原子力災害対策本部は、放射性セシウムの濃度が1キログラムあたり(以下すべて同じ単位で示す)8000ベクレル以下であれば、跡地を住宅に利用しない場合に限って汚泥を埋め立てることができるなどの方針を公表し、福島など一三都県と八政令市に通知した。また、8000ベクレルを超え、10万ベクレル以下は濃度に応じて住宅地から距離を取れば、通常の汚泥を埋め立て処分する管理型処分場の敷地に仮置きができるとした。
さらに、6月23日の環境省の決定により、放射性セシウム濃度(セシウム134と137の合計値)が8000ベクレル以下の焼却灰は『一般廃棄物』扱いで管理型処分場での埋め立て処分をしてよいことになった。さらに環境省は、低レベル放射性廃棄物の埋設処分基準を緩和して、8000ベクレル以下を10万ベクレル以下に引き下げてしまい、放射線を遮断できる施設での保管を認めてしまった。
おいおい待てよ。原子力プラントから発生する廃棄物の場合は、放射性セシウムについては100ベクレルを超えれば、厳重な管理をするべき『放射性廃棄物』になるのだぞ。環境省は、なぜその80倍もの超危険物を、一般ゴミと同じように埋め立て可能とするのか。なぜ汚染した汚泥を低レベル放射性廃棄物扱いとして、ドラム缶に入れて保管しないのか。この発生地は、無主物どころか、福島第一原発なのだから、その敷地に戻すほかに、方法はないだろう。これが『廃棄物の発生者責任』という産業界の常識だ」。
「6月24日(2011年)、農林水産省は『放射性セシウムが200ベクレル以下ならば、この汚泥を乾燥汚泥や汚泥発酵肥料などの原料としてよい』というトンデモナイ決定を下した……放射性廃棄物が、いよいよ発酵肥料に化けるのか」という具合だ。
「2012年には、汚染砕石のコンクリートを使った福島県内の新築マンションなどから高線量の放射能が検出され、すでに数百ヶ所の工事に汚染砕石を使用済みという実態が明るみに出た」。「首都圏では、雨で流され、除染で流した水が、すべて海に流れていることが、本当に深刻である」。
こうした立体的な放射能汚染模様は、一度作られてしまうと、それが放射性物質の滞留・拡散・移動・濃縮という「乱雑」な動き、そのままに、人間生態系を動き回り、半減期などに象徴されるように、自分で消滅するまで、消えてくれないのだ。
ここで問題なのは、これらが、日帝権力者たちの恣意的な汚染賠償削減政策、汚染管理費削減政策として展開されているところの、反人民的犯罪行為以外ではないということなのである。
<Ⅲ>
まさに、現在も、福島事故原発からは、大量の放射性物質が放出されている。全国的な放射性物質の放出の影響はむしろ、広がっており、例えば関東平野の汚染は重大である。福島だけが汚染されているのではない。

  だがしかし、福島の「復興」政策では、福島の農産物、お祭り、スポーツ行事など、がおこなわれ、福島に特化したものとなっており、それらにおいては、放射能汚染は軽微なものとしてあつかわれるという、欺瞞的な政策として展開されている。
 また例えば、福島における昆虫などの小動物に放射能汚染による生体破壊が進行していること、その人間への影響などは、タブーとされるような空気が、その「復興」政策では蔓延しているだろう。
そして「復興」の名によって、福島現地の放射能汚染をいう事はタブーとされ、もちろん、全国的に汚染が広がっていることは問題外のことになる以外ない。まさにこのような日帝による日帝の「復興」政策なるものは、受忍被ばくを強要するものに他ならない。
<Ⅳ>
このような汚染と闘うには、予防原則の徹底化が必要である。が、それは、これまでも述べてきたように、天文学的な国家財政の支出を前提とするものだ。予防原則とは、ある汚染物質と考えられる対象に対して、そのリスクについて、確証がないとき、それが安全であるという確証が得られるまで、それを使った工程を排除するというものである。ここでは、放射性物質の汚染が、どれだけ広がり、どれだけの影響を人間生態系に、この社会と地球にあたえているか、また、今後、どのように展開してゆくかという事を調べることであり、徹底した検査などを基本とし、移住・避難などを支援する、まさに、医学的にも、生活的にも、必要な総てのことを、それが必要なすべての人々に提供してゆくということである。
その財政支出は、他の財政を圧迫するし、ひいては、国家財政を危機に陥れるかもしれない。上限はない。東電はもちろん破産する。国家財政の危機がやってくるからやめろと、いうのが、祖国防衛主義者たちだ。
 しかし、その場合、予防原則の徹底化の立場にとっては、日帝国家は破産・崩壊し、反核政府を樹立することが必要となるだけだ。ここで問題となるのは、そうした革命的情勢を創出するために、労働者人民の生活圏に、日本帝国主義の放射能汚染責任という国家責任を追及する社会運動をつくりだしてゆくことが、問われるということである。
つまり、予防原則の徹底化の立場は、帝国主義の祖国防衛主義と対立し、日本帝国主義の祖国敗北主義をもってのみ、予防原則の徹底化は勝ち取れるという立場になる以外ない。そして、その武器が抵抗権にほかならないのである。
受忍被ばくを一つの前提とした帝国主義祖国防衛主義の立場に立つのか、それとも、日帝崩壊・祖国敗北主義の反帝ラジカリズムの立場、放射能汚染の加害者である日帝権力者に対する人民の抵抗権の立場に立つのか、そのことがまず前提として問われていると思うのだが、どうだろうか。(2014・7・20)